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May 31, 2005

茶飲み話ならともかく

出版界も緩くなったもんだわ。
記事にして出版してお金を頂く本で、名前を出してそのご本人に確認もとらない筆者ってライターとして恥ずかしくないかねえ。ネット妄想?


posted 久多@麩羅画堂 : 11:38 AM | comments (0) | trackbacks

May 30, 2005

押し売り。

実は過剰な景品もつけちゃいかんのだよね。
朝日は自社の新聞の拡張員トラブルを報道するのかしらね。
これ

これに相当する。自主規制。でも洗剤をたくさん持ってうろうろしている人たち大勢いるよね。
これ

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友と同じ翼を

b01b2407.jpg持たぬとて何を悲しむ事のあろうや。友と異なる翼を持ちて何の恥と解すべきや。


posted 久多@麩羅画堂 : 01:55 PM | comments (0) | trackbacks

想定内。

c0f23f38.jpg新しい酒を飲むにはグラスに残った酒は捨てなければその味わいは楽しめない。

とも言われたが、私はちびちびと継ぎ足しては溢れそうになった量だけ飲んでいた節が伺える。今思えばだけどね。

それは自分のスタイルでもあるが継続は力なり。
仕事と創作の両立を目指してきたが最近仕事量が増大し持てる力を使い果たさなければならなくなった。当然の義務であるがそれは過去の財産を食っているのとさして変わりはない。

創作は前進だ。先日意欲と能力と書き出して止めたのは自分の葛藤がまだはっきりと自覚ができなかったせいもある。
昨晩あきらかに前進しつつある人を見て即座に区切りを付けた訳だ。中途半端は嫌うところだ。いっそ今は仕事に邁進する事こそ自分らしいと感じた訳ね。迷いが無ければ打ち込める。


posted 久多@麩羅画堂 : 01:51 PM | comments (0) | trackbacks

久多ネットは閉鎖。

d105aa2e.jpg6月一杯で止めます。

手を広げすぎた事もあり更新も滞って心苦しかったのですが、今となっては新作「竜宮異聞」の完成もいつになるか分かりませんが、おそらくその時にブログとイラストメーションの合体したサイトになるかなと。
これ

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May 27, 2005

日本という国は

本当にひどい事をしたんだね。
これ

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May 26, 2005

二足のわらじ。

言いたい事言ってるだけの幼稚原。所詮書き物屋。男なら徹して自分が立つべきだろう。部下を泣かせてそれで一人前か?え?
これ

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May 24, 2005

強い不快感。

これは当然だ。常識としてマナー違反である。


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May 17, 2005

岡部冬彦氏 死去

ベビーギャング、合掌。


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柔、剛を制すか。

大海弦淇
柔、剛を制すか。
だが所詮柔に過ぎぬ。剛を制するものは剛でなくてはならぬ。

阿武
氷女よ、しくじったか。
那国は近きうちに柔の恐ろしさを思い知る事だろう。


posted 久多@麩羅画堂 : 07:44 PM | comments (0) | trackbacks

泉1856。

601e1ba1.jpg5月14日より
ドミニックアングルの泉。これが見たいがために仕事を抜け出して横浜美術館で開催されているルーブル展へ出かけた。

新古典主義の旗手に見なされがちだが線に理想を追い求めただけだ。良くアングルの女の背中には骨が一つ多いと言われるが東洋、特に日本の女の裸を見慣れると(それほど見た訳ではないが)全身に占める座高から不思議と自分にはそれが異質に思えない。まあこれは冗談ですが、あるべき自然の姿を追求した結果として滑らかな曲線に必要不可欠な長さだった事が分かる。アカデミックと言われながらも決して古い体質を持っていなかったと頷ける。
前後に描かれたオダリスクやトルコ風呂などはオリエンタルエロティズムにあふれているが「泉」は、その前に立つと裸体でありながら裸ではない。その印象に若干の戸惑いを覚えた。美術書で見る印刷された「泉」とあきらかに異なるのだ。本で読んだのだが、セザンヌは手記でこの絵を評して、理想を追い求めるあまりそれは肉体をまったく描かないで済ませたと書いたそうだが、今回目の当たりにしてやはりそうなのかと腑に落ちた。理想は肉体を超越する。しかしこの絵は弟子の手が数多く入っているそうだ。甘さはそこから来ているらしい。
それでも、ジャン・オーギュスト・ドミニック・アングル。私は彼の絵が好きである。いやすべての出発点だと思っている。
私がアングルが好きな理由はもちろん「泉」が原点ですが、本来の彼が描く基本の素描を書籍で見た時からです。
その迷いのない洗練された線は、その後の画家のいわゆる線では捕らえきれない光を重視した方向から古いタイプ(だから古典主義などと言われるけど)と見なされた訳ですが、例えば浮世絵に影響された画家はどう思ったでしょうね。
で、私は日本の絵画は好きですが、その理由で大きな比重を占めるのは何も描かれない空間、埋め尽くされない空間、緊張と弛緩の割合。ですね。


posted 久多@麩羅画堂 : 06:17 PM | comments (0) | trackbacks

ガブリエル。

c3645ff9.jpg5月5日より
人を試そうとするからだよ。ガブリエル。人は他人に試されるのを好まないのだよ。翼を失ったお前は人の痛みを知る平凡になれたのだね。

難解であるかのように見せ実は単純な天使と悪魔のお話は私の世界にぴったり。だけどガブリエル、お前も不憫な奴だなあ。神に変わって試練を与えより高くより強き者に主人公を育てるのだもの。さんざん人はすがれば解放される虫の良い存在と説きながら自分の時はマイゴッドなの?好きだよガブリエルそんなお前が。
家来は嫌いだがサタンは良いな。だって天使のように試そうとせず耳元で囁くだけだから。でも正直言うと映画ではサタンは天使より美形にして欲しかった。いやオヤジではなく美女でも良い。一目で邪悪が分かるようでは人は敢えて目を合わせようとはしないだろ?
宗教観の違いは如何ともし難く理解できない主題ではあるがコンスタンティン。上下を左右に振った画面は俯瞰とともに好き!

魯山人の宇宙。
生意気言うが、食器は料理が盛られてなんぼだと思うのだが今回は未使用のコレクション。魯山人が愛した世界ではないと。彼の語録も展示していたが意訳で「西洋や中国は10の事を10で言う。日本は1で済ませる。」と言うのがあった。なるほど均一な文化で有効だが近年これが麻痺している。同一の感性は他者の存在を許さないであろうし閉鎖的であるとも言えるが、分かる人だけ分かってもらえれば良い主義では現代は生きられないのだろう。特に国際社会ではね。感情ではなく勘定、理性ではなく理屈。なるほどね。あっ芸術はちがうね。


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ちくめの声は聞こえない。

8046d8ff.jpg5月4日より
茅ヶ崎へ行く。T氏の紹介で昨年もお邪魔したK氏のお宅だ。

昨年は山に入って竹女を妄想したが、今年は竹の生育が良くなく数が少ないとの事で肩の事情もあるため私は山に入らず火の番をした。
畳一帖分の鉄板を満遍なく熱くするのは容易ではない。さらにバーベキュー用のドラム缶を半分に切ったグリルの火も作らなくてはならないので結構忙しいのだ。まくった袖と軍手の間の10センチほどが日焼けなのか火傷なのか真っ赤になってしまった。それだけ日常の中で日に当たっていない証拠だわなあ。
参加者に教授連の多さも特筆で時折混じる冗談とも本気ともつかぬ研究の話は無学な私に題材を提供してくれたが、残念な事に帰り際にはビールとワインのアルコールに溶けてしまったのであった事よ。


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開示する事。

5月3日より
鶴見へ向かう。友人の個展で年に一度この季節にはるばる山口から来るのだ。私は基本的に自分を蝙蝠職人だと思っているから一方に徹する事はない。だからアーティストであると宣言し自らの信念に忠実なカタヤマ氏が眩しくて仕方がない。そして彼の中に自分の姿を垣間見るのは拝金世俗的自分を保証したいがためかも知れぬ。絶対はあり得ないんだよと言いながら絶対なくして何処に足場を求めるのだ。そう問いかける彼の言辞は私を突き刺す。


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鉄。

6406dd1c.jpg5月3日より
情熱で溶かし根気で打つ(とは誰も言わないが)鉄。その鉄から生まれた創作物は十分に存在感に溢れ周囲を圧倒した。木の柔と鉄の剛の融合は自然界にあり得ず、人が選んだ重宝な素材と言える。農機具や武器として実用でもあるが、しかし今回のように一定の時間経過を朽ちたイメージで捉えるとそこはかとなく剛であるべき鉄の哀しみが伝わり来るを感じるのは私だけだろうか。
人が生み出す物達の言わば制限下の儚さを脳内に刻み会場を後にする。


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ゆらめきは必要か。

4dc2f66d.jpg安定は重要だが同時に自分を危める。過去の自分に学べるか、ゆらめきは試金石。

ポロックのオーバーオールは映画になったと思う。表現が疑問を引き起こす。人は理解不能で思考を停止させるが私は個人的には退屈だと思う。理解したつもりよりも遥かに健全だとうぬぼれる。例えば批判がアーティストの思うつぼだとすると無視はアートの死滅。イラストレーターに無視はあり得ないのでアーティストにはなれない。だが垣根を作る愚かは自分が発してはならない。
とすると、自分は一体何ものか?

写真は今朝幼稚園に向かう子供が母親の手に引かれながら朝日の方向へ歩いていたが幾度も振り返り自分の影を慕うようにバイバイをしていた。今自分は自分の影に正面からカメラを向ける。アスファルトに投影されたもう一人の自分は確かに意思を持たない。つまり過去はまた現在は意思の残骸もしくは定着と言える。大切なのは今もしくは未来だけなのだ。


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May 16, 2005

だらしナイッスミドルからの脱却。

4月30日より
最近仕事の量もさることながら自分が見込んだ作業時間が遅延気味。なのでとほほな休日出勤が続く。想定の1.2倍かかるようになった。いよいよ老化現象か。愛されるお爺さんを目指すには避けて通れないナイスミドル。そんな訳で若い人から吸収しなくてはならない。まあオジドラですな。

で、昨晩は知人の初個展で代官山へ出かけた。なんで美人で若い方がこのような日本的なエロを紡ぎ出せるのだろうか。今更ながらミクシー始めた頃のエロ談義を読み返した。理解はしたが実感ではなかったので初体験だった訳。むっちりと肉厚、むき出しの自我が極細の線で表現されている。氏はそれをmovingとし一枚絵でありながら継続の時間を表現されているとの事。ちょいと楽しい時間を過ごした。

で、ちょうど線で描く行為を見たので以前タイトルだけでまとまらなかった繊細と洗練。
同義に聞こえるが私としては少しばかり違うと感じたのだ。新酒は荒々しいと言えば分かりやすいと思う。洗練を熟成とすれば尚理解しやすいかと思う。若い線は汚いがそれは汚れたと言う意味ではなくどこか持て余した力を感じさせる物だ。有り余る意欲が先へ進み線が追従すると言うべきか。そして若さゆえ震えるばかりの心の動きや衝動が素直にその粗さが線に現れているのではないか。若さと粗さは実は同じ存在ではなく相互に補完する物なのではないか。ちょっとまだこの辺りが完全に理解できないのでこれ以上は書けないのだが。勿論既に完成された線もあるが概ね間違いではないような気がする。

では洗練とは何か。若さと粗さが補完し合う状態から次のステップとして自分のテーマを持つようになる。永遠に爆発し続けるアーティストは数知れずだが多くは意欲の方向を定めそれに沿った技法を磨く事になる。無論発想が年齢とともに薄れると言う意味ではない。それは慣れと言っておしまいのサインだからね。染み付いた感性は不変であるを前提としなければならない。現代美術は観客との乖離ではなく対話であると誰だっけ名前を忘れてしまったが観客が表現者の意図を正確にキャッチできるとは限らない。視覚で捉えた美しい線に価値を見出すのかも知れない。さらに奇麗に仕上げられた結果だけを尊ぶのかも知れない。繊細を忘れた洗練はやがて物的なものとして消耗されて行く運命なのだ。そう思う。

人生の濃度を測る。これは先の知人が高濃度な時間を経たお話から題材として得た。自分としては今が薄いのかと言うと決してそのような事はないと思っている。だが一般に青春と位置付けられる年代が濃いと感じられるようである。恐らく発散より吸収が忙しかったからかなと思うが主体が漠然として混乱状態だったからではないかなと感じられる。ちょっとこのあたりもまだはっきりまとまらないのでざっと書いたが間違っては困るのは青春とはを論じたいのではなく人生の濃度は誰が測るのか、量るでも良い。
私は薄いとは思わないと書いたが感じる事はある。年を重ねれば自然と多くの事に関わりを持ちいずれも捨てられないしがらみの中で生きればおのずと均等に割らなければならなくなる。そこいらに鍵があると思う。だらしナイッスミドルからの脱却。がんばるよ。うんうん


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哀しい老人。

4月29日より
店内で一人の老人が酒に酔って騒いでいた。
男性店員がしきりに「他のお客様がいらっしゃいますから」となだめていたがまったく構う事無く大声で喋り続ける。
「もう一本くれ」「いえそれは・・・」「何、金は払うぞ、払うのに何故だ。君は幾つだ?」
店員が二十うん歳と答えた。老人は「そうか、わしは君と同じ歳には戦争だった。うんぬん」

「そうだタクシーを呼んでくれ。え、駄目か。じゃ帰る。」
店員は今の状態でお帰りになられては骨折でもなさったら大変です。しばらくここでお茶でもお飲みいただいて落ち着かれましたらお帰りくださいと、しまいには席に並んで動かないようにするのに精一杯の様子だった。
そこで食べ終わったので後の事は知らない。
哀しい老人と書いたのは、だいぶご年配の様子から親しい友人も少なくなり、女房とも死別し、たまに街に出ては昼にお酒をいただきながら外食するのが唯一の楽しみなんじゃないのかなあと推測したからだ。まあ勝手な作り話に過ぎないのかも知れないが、ふと未来の自分を見ているようで哀しくなった訳。まさか80近くでモニター見ながらアニメーションを道楽にしているとも思えないしね。お国のため会社のためすべて家族のためと頑張り抜いた挙げ句に寂しい思いをする老人は多いと思いますな。趣味を持てと言ってもそんな余裕もなかった人々が素養も無く始められないでしょうし、老人は大切に扱われて然るべき道徳で育ったでありましょうし、まあ個人的な問題ではありますが耳が遠くなれば家族の思いやりも意見と捉えられがちですし、体が思うように動かなくなる焦りや苛立も理解はできるのですが、これも理解止まりが現実なんでしょう。
必ず来る老後だ。そう思うと、この時間を疎かにしちゃいかんな。ゆったりゆっくりじっくり生きたいものです。周囲がそれを許してくれるかは別なんですけどね。如何に人を愛するかはどれほど許せるかなんですね。


posted 久多@麩羅画堂 : 09:32 PM | comments (0) | trackbacks

動物ヨーチビス

2c9b4f17.jpg記憶が曖昧だがデジャヴがあったので買ってみた。
やはり懐かしい味がした。ほんのり甘い。母の味わい<大袈裟
これを製造した「駄菓子横町」は横浜中区日ノ出町にある。
名前の意味が良く分からない。語呂合わせかも知れぬ。
幼稚ビスケットか幼児用チビビスケット?


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狂気というものは。

4月26日から
自分が渦中にある時は気がつかないものだ。認識できるはずがないものね。他者の狂気は見聞したから理解できる。何を以てそう見えたかは様々であるから断言はできない。

例えば若い女がまったく素面でありながらハイヒールを片手で摘むようにヒラヒラさせながらストッキング直にまっすぐ歩いて来たらどうするか。おそらく目を合わさないようにするだろう。ではそらす事なく観察する自分は正常の範疇に入るのかな。
いや違うな。擦れ違いざま酒の匂いがまったくなかったから初めてそれと気がついただけだわ。
狂気が暗いとは限らないものね。
実は狂気は鬼だと叫んだ手前何とか落とし前を付けようと考えてました。人は思い込むとその現象が目に入るようにできているんですな。
「あんたは狂気の何たるかを知らない。憧れているだけだ。なんなら見せてあげようか。」と言われ怖れおののいた事もありました。本物はいらない。狂気を演じて面白いと感じる俳優がいますね。ビートたけしはダメ。目が笑っている。やはり緒形拳だろうと思います。
普段の顔が柔らかいほど良いのかなと思う訳です。
狂気は見せた段階で現実となるから狂気と言えない。
すると鬼の狂気は当てはまらない。慈悲深い仏こそ鬼の本質であると、だから阿修羅の顔は少女のような顔なんですなあ。
「虫も殺さぬ顔」の例えは優れた表現だと思います。
やはり映像化は難しいが変化を捉える事によって演出家はそれらしく見せる事ができたんですね。


posted 久多@麩羅画堂 : 09:24 PM | comments (0) | trackbacks

かほり。

4月25日の事。
打合せ 急ぐ帰社時の 交差点 柑橘系に 首部を上げる

交差点 よせてひくかな かほりみち

かほりみち せまりとおのく こおさてん

みちなかば かほりできづく こおさてん

打合せ事項を反芻しながら帰社したが女の柑橘系の薫りで交差点を渡っている事に気がついた自分。実際は優雅ではなくちょっと恐い一瞬だった。やれやれ・・・


posted 久多@麩羅画堂 : 09:20 PM | comments (0) | trackbacks

ツインタワー。

80bc7e6d.jpg4月24日にみなとみらい新高島駅付近で。真ん中に月が浮かぶ。
目で観た時はもっとずっと大きかったのだが写真ではお粗末。
残念。
血が騒いだが吠えるところまでは行かなかった。
これも残念。


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人がすべて。

最近すべての分野でないがしろにされる。人がすべて。
頻繁に起きるJRの人身事故や車両事故。航空機。PC。金がすべての風潮が蔓延する中、最も大切な「人がすべて」が後回しにされている。行き過ぎた企業論理の合理化は結局すべてを失う。そんな気がする。すべてがヒステリックだ。以前に戻れとは言わない。改正が改悪にならぬよう考えるだけで良い。
すべてが小手先。すべてが追われている。すべてがその場しのぎ。日本を憂える。

列車の運転士は遅延が出ると取り戻す努力を要求されると言う不文律があると以前聞いた。定刻運行できないと勤務評定でマイナスポイントが加算されるとも聞いた。何のための速度制限なのだと当時思ったものだ。
建前で言えば弱肉強食で弱い存在は淘汰されますね。自分なんかも実際にはいつ切られるか、飽きられるか、早いだけ安いだけが取り柄なのか、日々爪を噛みます。絶対というものがない以上切磋琢磨かへーこらするか、それほど多くの選択肢は持ち合わせていません。
許容の社会がすり減って来たとも言えますが、一度のミスが取り返しのつかない事態を引き起こすほどのセクションではないので自分の場合はまだ救われます。
行動ができる社会はまだ余裕を内に持っているとも考えられるので、その年代の若い人は救われると思いますね。陰湿な行動ではありませんからね。
もっとも管理外の疎外とも言えるわけで楽観視はできませんよね。
ああいった事故の後だから運転士と車掌はいかに遅れを取り戻すのかに関心があった。
実際に事故の後など驚くほど早く到着する事もある。
これらも運転指令室よりも運転士と車掌の自由裁量によるものなのだろうか。

車両不整備なら言語道断だが人身事故なら責任の一端は事故を引き起こした人にあるからね。駅員に喰ってかかるご仁もたまに見るが、別に怒る必要もない。車内アナウンスでお詫びを耳にするがいつも別にあんたが謝る筋ではないだろうと思っている。
私が怒るのは起きた事は仕方がないにしても連絡はシステムとしてきっちりやって欲しいのだ。駅アナウンスと車掌アナウンスが異なるのは困るのだ。

まあホームに配置される駅員の数が少なく内心これで安全が確保されるのだろうかと思う事もある。
だがそれは我々乗客が自分を守るためにも最低のルールを遵守すれば良い事だと思う。

朝の通勤時の遅延は恒常的だ。出社時間が皆同じなら同じ時間に集中する。乗り遅れで遅刻すれば減点材料だ。朝は眠いからぎりぎりを狙うだろう。次の列車が到着しているから無理をしないでくださいと駅員が絶叫してもお構いなくドアに殺到し結果としてすべて遅れて行く。皆で遅れの原因を作っている。

様々な大量の悲劇から車両の不燃化、ATS導入、脱線防止柵と進化した。
民営化された国鉄の悲劇は今回のように過剰ダイヤになりそれは私鉄2社との競合にあるとエンターティメントニュースは報じた。採算性から整備上の不備が生じたとも言う。
しかし根底にあるのはヒステリックジャパン。日本人の建前几帳面にあると理解した方が良いのではないかと思う。

再教育について明るみに出たのはまさに民間人を地方人と呼んだ弱者を徹底して嬲る悪しき帝国陸軍そのものではないか。
むろんこれらの散文が免罪符であろう筈もないが、むしろ贖罪すべきは我にあると。
そう思うのだ。


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鬼の目に号泣。

阿修羅城の瞳。がっかりさあ。画一的な鬼の描写。中途半端なCG。おいおい松竹110周年でこんなもんかあああああああ!後半あくびだらけ。唯一の救いは鶴屋南北だがもっともっとエキセントリックで狂気で鬼そのものになって欲しかった。最初の15分つまり予告編で十分。

鬼はつまり狂気なんだ。

この物狂いがないと鬼の映画にはならない。舞台とは違うんだ。殺陣も不十分。金返せよー。
りえちゃんの肩が細くて痛々しかった。がっくりさあ。
エロ度も不十分。揺れれば良いってもんじゃないだろー。汗を流せば良いってもんじゃなかろうが。昔の大映だったかな?のエロ度を見なしてよー。衣擦れ、白いはだ、鮮烈な赤、陰影、あるだろー。あれしきの描写で女が鬼になれるのなら全国万国鬼だらけじゃあないかー。ああー怒りが収まらん。
衣装は良かった。(参考になったという意味)


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ZBrush

ミスターP氏のブログで知ったのだけどこれの制作手順「ちょうちんあんこう」サンプルムービー見ていたら楽しそう。

ひれを形成する際に自分の腹の手術痕を思い出して苦笑。
何よりもOSX対応ってのが好感度あっぷ。
でも7万円か・・・
こちら

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機能美。

理由のあるデザインと思想。機能美。人の肉体こそ無駄のない機能から生まれた美と言える。いや人に留まらず自然界そのものが無駄を拒絶し研ぎ澄まされた美しさで満ちている。良く小さな生き物を写真として記録するが人の考える機能は果たして求めた機能と言えるのだろうか。

人へ回帰すると言う事は、とりもなおさず優れたデザインに近づくと。
久し振りに自分の思うまともな時間にバスタブに浸かって裸をしげしげと見る。肩が不調なのは変わらないがカバーするために他の機能が支援する。だが無理がある事は明白だ。カバーはカバーでしか過ぎず永遠に続かない。したがって他の障害を引き起こす。それほど絶妙の曖昧さを許さない微妙なバランスに肉体は成立しているのだ。
理由のあるデザインは自身が所有している。表面に見える機能だけではなく内部で日々休む事無く続く機能の数々。それを知れば感情すらデザインの一環だと思えるのだ。
感情は犯さざるべき固有のデザイン。生まれた発想は自然を越える事はないが人が自然の一部と規定するのならば人の生み出すモノもやはり自然の一部だと言える。


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合鍵。

昨日は光は眩しく風は優しく新緑は心地よく絵に描いたような素晴らしい天気だった。
さすがに心身共に疲労を覚えたので休日とした。
総会が正午まで続いたが特段難しい議題も無く紛糾する事もなかった。
このまま何事も無ければカーテンの揺れに任せてまどろみの一日を過ごしただろう。

山下公園の前にそのホテルはある。
古い建物なのでティーサロンの天井は低い。
石造りのため窓は小さい。道と中庭に面した薄暗い部屋だ。
静香から携帯にメールが入った。
そこには逢って話をしたいが事務所は嫌だと打たれていた。
では今日は天気も良いからNGホテルへ行くと答えて出かけた。
光の中を何も考えずに歩くのは気持ち良いものだ。
いや人の作り出すものより人を作り出したものの偉大さの前で人の考える事など何ほどのものかと言い直すべきだろう。
彼女は先に着いてオーダーも終えていた。
いつもの事だ。


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