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July 26, 2005

猫谷物語1-2-5-10

 義理の父の手の中でもがきながら見上げると、涙はとうに乾いていた筈であったチクワの眼の中でキクの姿がゆるゆると歪んで見えた。
「ここでな、黙って見送るのだ。良いな。」
 ハナは抵抗を止めた。
 雨ともいえぬ細かな雨が降ってきた。梅雨が始まっていた。その中をキクの後姿がやがて闇に溶け込んでいった。

 死を迎えた猫はすべての猫の縄張りをまっすぐに通って死に場所へ行く事ができた。いかに憎みあっていたとしても誰もその道を妨げることはできない御掟であった。譲る義務があった。道中出会った猫はいずれも眼を伏せ、あるいは背けた。
 キクは、はるか西を目指して体力が続く限り歩いていた。西へ行けば行くほど極楽が近づくと猫族に伝えられていた。歩けば歩くほど生きていた間の汚れが体から離れ、魂が清められると信じられていたのだった。
 猫はけっして人族の考えるように恨みを持って化けて出る事はない。老猫があたかも自動的に化け猫に変化する事など有り得ない。人族の元で飼い猫として長く一緒に暮らしておればいやでも人族の悪しき行いを見ていた事だろう。見られて困るような恥じる行為が幻を生むのだ。猫は掟に忠実にすべてを捨てて死ぬのだ。人族の恨みは人族同士で勝手にやって欲しい。猫を巻き込まないで欲しいものだ。
 どれほど歩いたであろうか。やがて力つきようとする場所で物陰を見つけ体を地面に伏せ頭を西に向けた。
 目を閉じ手足を伸ばし全身の力を抜いた。そして念じ始めた。
 無(ムーッ)、
 似路意祈似路意祈弧魔理之破(ニジイキ、ニジイキ、コマリノハ)、
 祈更無祈更無(キザラム、キザラム)、
 業心無(ギョーシンムーッ)………
 記憶が走馬灯のように巡ったが直に白い光が満ちて来た。
 やがて二、三度かすかな痙攣を見せると眠るように死んで行った。まだ十分に若く多くの子孫を残さねばならぬ運命をその身に背負っていたが他者により断ち切られた。だがその死顔は生き切った者だけが見せる安らかな物であった。その亡骸はけっして他の者に見せてはならなかった。よしんば見たとしても、その者は見た事を一切他の者に語ってはならなかった。
 猫はすべてを捨てる。邪心がない限り復活はなかった。キクは土に還っていった。


posted 久多@麩羅画堂 : July 26, 2005 10:11 AM

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