August 18, 2010

ボヘミアン更新したよ。

猫谷物語第二章 破壊 六 猫谷(4)
今日は休日出勤と言う訳・・・暑いねえ


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September 18, 2005

猫谷物語1-2-7-2

 だが、辛い思い出であったため訪れる事を躊躇していたが、春の陽気に誘われでもしたのであろうか、谷の花霞を見たからであろうか、ふと懐かしく思い出されたので高速道路にかかるあじさい橋を渡り谷に降りてきたところだった。
 しかし、人族が作業をしていたため、このまま帰ろうか様子を見ようか迷っていた。そんな折り、声をかけられた。
「ウリ、か……?おうっ、やはりウリだ。懐かしいな、元気そうにしているではないか。」
「これは、アカミミ様、お懐かしゅうございます。ええ、もう丈夫だけが取り柄でございますから。」

「そうか、そうか。……達者か。何よりだの。」
 声を掛けてきたのはクロの腹心のアカミミであった。両の耳が赤く瞳は澄んだ緑色をしている。どことなく育ちの良さそうな品のある雄猫でクロの母と旧知の間柄であった。クロの母亡き後は何かとクロの面倒を見てきた。
 どちらかといえば闘いを好まず和を理想とする穏健派であったが、食うためにはある程度の闘争は仕方が無いと考えていた。何より秩序を重んじていたからクロの新しい取り巻きの連中の行動を苦々しく思っていた。
 しばしばアカミミと意見が衝突していたのは、武猫のカタミミであった。
 右の耳が千切れていてそれを野良猫の勲章と考えていた。若い頃の闘いの名残だが闘えば相手は二度と立てなかった言い、実際彼に睨まれた雄猫は皆一様に目を背けて退いた。そして自分よりもさらに強い兄がいた事を自慢にしていた。だが不思議な事にそれ以上は過去を語る事がなかった。武勇を誇り、力ある者が他を制するのが当然であると考えていた。


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September 17, 2005

猫谷物語1-2-7-1

  七 予兆

 次の年の春、今は亡き猫丘のキクが再婚してまもない頃の事であった。猫谷に薄い桃色の霞がかかっていた。
 西側の斜面にかなり太い幹回りを持った桜の古木があった。歳は本人も忘れたくらいだから、猫の誰に聞いてもわからなかった。
老いてはいたが毎年のようにゴツゴツとした枝から見事な花を咲かせていた。それが季節の終わりを告げるかのように風に吹かれて盛んに散っていた。
 その花霞の下をウリが歩いていた。花片が肩や背中に散りかかり薄桃色の模様のように見えた。

 一昨年の台風の最中に崩れた南の崖はその無残な姿を陽光の元にさらしていた。だが、何も変わっていないようで実は少しも休むことなく事態は進んでいた。
 ウリがここへ来る少し前に人族が数人連れだって桜吹雪の下を崖に向かって歩いていた。ウリがかつて親しんだ館のあった辺り一帯を所有する新しい買い主から調査を依頼された者たちであった。背広姿の者もいたが多くはヘルメットを被り測量器材を肩に背負っていた。
 崖に到着するとヘルメットの人族はあちこちに紅白の棒を立てては、レシーバーを通して
「もっと右、もうちょい、もうちょい、良しそのまま。」
 などと言いながら、双眼鏡のような機械を覗いてはなにやらジジッと打ち出される紙に書きつけていた。
 崖下から中腹にいたるまで作業は延々と続けられ夕刻になって引き揚げて行った。
 ところでウリは崖の崩壊後は秋の終わりまで、その周辺をうろついていたが、今では猫丘に移り住んでいた。
 雌猫は滅多な事では縄張りを出ないし移る事もなかった。
 ウリの場合は特別であった。もちろん谷の連中にも事の次第を話し猫丘のキクやチクワにも仁義を通して、移り住む事を認められていたのだった。
 以前から崖下の壊れた館跡の事は気になっていた。


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August 10, 2005

猫谷物語1-2-6-9

「ツララ!済まぬ。俺は逃げる、逃げるがきっと迎えに来る。それまで辛抱してくれ!」
 被せるようにツララの頭上から勝ち誇ったシミの嘲笑が聞こえた。
「フンッ、デジとまるで同じだ。所詮は野良猫、臆病者だわ。ツララ、お前も馬鹿な奴さ。良い気味だ。これからは心を入れ替え、せいぜいブチ殿に可愛がってもらうんだね。」

「もはや逃げぬ、逃げる理由も見当たらぬ。手を放しておくれ。マロさえ逃げてくれれば私は私で生きて行ける。それよりも、そなたの身が案じられる。決して美しさを損なうとは思えぬのに心の傷は顔の傷ほど癒えぬと見える。憎しみほど醜い物はないと言うに一生そのような物を背負い込んで生きて行くのか、可哀想なシミ。」
「何だってえ!生意気を言うんじゃないよ!顔を傷つけられたあたいの気持ちなんか、ちやほやされて生きて来たお前に解って堪るか!」
 お前にも同じ目に合わせてやる!と叫ぶや爪をツララの顔に振り降ろした。
 だが振り降ろしたシミの手はその体とともに遠くへ飛んだ。太い腕が寸での所でシミを払い除けツララを守ったのだった。
「止めい!シミ。ツララに傷つけるなどもっての他、分をわきまえよ。」
 息を切らせたままのブチがそこにいた。


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August 09, 2005

猫谷物語1-2-6-8

「こいつら、本気か!」
 思いがけない二匹の反撃であった。絶対の自信を持っていたから、相手が降伏するものとばかり思っていたのだ。ブチの体がわずかに揺らぎ、その傍らを二匹がすり抜けたかのように見えた。その瞬間、ツララの体がマロから離れ宙に飛んだ。
「そうはいくか、この裏切り者!」
 植え込みから密かに事の成り行きを見ていたシミが、飛び出しざまツララの足を払った。一瞬の事であった。
「ツララ!」

 マロは振り返り立ち止まった。ツララの眼を見た。眼は逃げろと言っていた。
 シミに押さえつけられたツララが叫んだ。
「マロ!逃げて!逃げ抜いてください。逃げる事は今のあなたにとって恥ではない。恥じるとすれば自身の短慮です。今は堪えて、今は振り返らないで!」
「小僧!よくも俺様に恥をかかせたな。殺してやる!」
 ブチは態勢を立て直し猛然と駆け出した。だが肥満が災いして出足にキレがなかった。ツララはシミの手を振りほどきブチに必死の体当りをした。体が大きいブチにとってさほどの影響はなかったがそれでもマロに逃げ切る時間の猶予が生まれた。マロは走った。再びシミに捕えられたツララにはマロを追うブチの後姿しか見えなかったが、はるか前の方から声だけが聞こえて来た。


posted 久多@麩羅画堂 : 10:35 AM | comments (0)

August 08, 2005

猫谷物語1-2-6-7

 不意をつかれてマロは狼狽した。以前にもブチに手ひどくやられていた。逃げるか、降伏するか、闘うか。しかし、このまま逃げればツララがブチに厳しい仕置きを受ける事も考えられた。降伏は嫌だった、服従だけが待っている。力はなかったが自尊心だけは人一倍持っていたマロは、最後の道を選ぶしかなかった。闘って負けたとしてもブチは敬意を払いツララには辛くあたるまいと考えた。マロの全身に震えが起こり顔に黒くアザが浮かび上がった。マロは小さい頃から興奮すると歌舞伎の土蜘蛛のように目の下に黒い隈が現れるのだった。

 ブチは絶対の自信を持っていた。マロの性格も読んでいた。薄笑いを浮かべながらマロがツララの手前、逃げる事ができないのを承知で憎々しげに、
「小僧、逃げたければ逃げても良いぞ。そら……。」
 と、わざと体を側へよけ逃げ道を作った。だが決して爪が掛からぬほどの隙間ではない。マロにもそれは解っていた。闘争など毛ほども知らぬと見えるツララにもマロの絶体絶命は理解できた。ツララはマロに言った。
「共に逃げましょう。闘ってもあなたの今の力では潰されてしまう。」
 マロは驚いてツララを見た。自分の知っているツララと違う、いつからこのようにたくましくなったのであろうか。一体この娘は何者なのだ。この落ち着き払った態度は並みの家持ちではない。だが混乱している余裕はなかった。ブチをにらみながら、
「しかし、お前。ここを出てどう暮らすと言うのだ。深窓のお前には野良は無理だ。お前に辛い生活はさせたくない。お前はここに残れ。仕置きは受けるだろうが殺しはすまい。俺は闘って死ぬ。」
「死ぬ?今のあなたのままで死んで一体あなたに何が残るというのです。残された私は何もなかったあなたの気持ちを抱えたまま放り出されてそれでどうするのです。」
 マロはハッとした。確かにそうだ、死んでどうなる。俺が生きた証はまだ何もないではないか、逃げよう。腹は決まった。
「ツララ、済まなかった。共に逃げよう。二匹でぶつかるように立ち向かえば勝機もあるだろう。」
 言い終えるや否や共に駆け出した。ブチのつくったわずかな隙間をめがけて突進した。ブチはうろたえた。


posted 久多@麩羅画堂 : 11:42 AM | comments (0)

August 03, 2005

猫谷物語1-2-6-6

 問いかけるマロにツララは驚いた風であった。
「マロは烏の話が分かるんですか?」
「当り前だ、小さい頃からずっと奴らの話は聞いていたがそれがどうした。それよりもさっきの話は何だ。」
「いえ、何でもありません。通りかかった烏が私をからかったのでしょう。私には何が何だか解りませんもの。」
「だろうな。お前はちょっとお馬鹿さんだもんな。」

頭の上で手をくるくる回し烏の飛び立った空を見上げていたがそれきりマロは烏の事を忘れた。
 住む社会が違い、猫格も違う二匹であったが、自然の妙か雄と雌であったからお互い憎からずと思うようになっていった。時の熟成というようなものであったと思われた。
 だが、この二匹の関係は家持ちの長ブチの知るところとなった。ツララの館へ足繁く通うマロを、野良猫を激しく恨むシミが見つけたのであった。デジから受けた顔の傷は眉間にかすかに残っているだけになっていたのだが、シミの心に受けた傷は癒されてなかった。自分の美しさに自惚れていただけに、それが損なわれて心の拠り所を見失ってしまっていたのだ。同じ家持ちのツララさえ野良猫と親しくしている。ただそれだけの理由で裏切り者の面汚しと憎んだ。
 マロの後を付けてツララと会っている現場を見届けると、ブチの元へ駆けこんで訴えた。それを聞くや、家持ちの長ブチは毛を逆立てて怒った。
「俺が縄張りの内で野良猫が家持ちに手を出すなどもっての他!勝手な振る舞い、断じて許さぬ。」
 早速、大きな体を揺すらせてツララの館へ急行した。


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August 02, 2005

猫谷物語1-2-6-5

 デジがいなくなってマロは張り合いを失っていた。悪さをしても競う相手がないからだ。野良猫は確かに他にも大勢いる。だが、皆が自分より年が上か下かで同年代でなかったためと何というか馬が合うというかしっくり来る者がいなかったためだ。
「面白くねえ。つまらねえ。」
 と、毎日のように家持ちと喧嘩をしていた。もっとも大概が負けていた。それがますます世の中を面白くないものにしていた。

「長のクロみたいに強くなりてえ。」
 だが、持って生まれた体格がある。気持ちでは強くなりたいと思っても体がついてこなかったのだ。
 本人は決して不平のはけ口として意識していた訳でなかったが、白い猫を馬鹿にする事で気分が良くなったから館へ足を向ける事が自然と多くなっていた。やがて白い猫がツララという名を持っている事を知るようになった。たまに会ったところでマロは黙って飯を食い、それをツララがやはり黙って見守るだけであった。その繰り返しであった。傍から見れば姉と弟に思えたかも知れない。
 崖下のウリのように野良から家に入る例もあったが、家持ちの多くは子供のうちから買われてきた。ツララもその一匹であった。全身が白い長毛種でそこからツララの名がついた。瞳が青く高貴な血筋の猫であった。人族は一目で気に入り猫谷の東にある館の内で、箱入り娘のように大事に育てられ美しく成長していたのだ。
 ある日、マロがいつものように出かけるとツララは出窓で寝ていた。声を掛けようとした瞬間、餌を狙っていたのだろうか出窓に大きな烏が舞い降りた。
 ツララの身を案じ飛びかかろうと身構えたが、当のツララは一向に平気な様子だった。物陰に隠れて様子を窺っていると烏の声が聞こえて来た。
「俺の名はカリと申す。ツヅミ殿の遣いで参った。ツララ殿、お前様は十分に大きくなった。そろそろ役目を果たせと仰せだ。スベリの名誉にかけてな…。誰だ!」
 役目と聞いて身を乗り出したマロの立てた音に気が付いた烏はそこで飛び立って行ってしまった。
「ツララ。役目とは、スベリの名誉とは一体何の話だ。」


posted 久多@麩羅画堂 : 11:00 AM | comments (0)

猫谷物語1-2-6-4

 いなくなる理由はマロも知っていた。だからと言って黙って行く法はないだろう。道みち考えながら歩いていた。考えながら歩いていたが野良猫の性だ。うまそうな匂いにつられていつの間にか人族の屋敷内にいた。
 澄んだ青い目を持つ白い猫がこちらを見ているのに気がついた。テラスに面した壁に腰高の出窓が開いていてその上から見下ろしていたのだ。

 白い猫の前に餌の入った皿が置いてあった。周囲を見回し人族の気配がない事を確認すると勢いをつけ壁に爪を立て跳ね上がった。こんな事は彼にとって造作もない事だった。
 白い猫は驚く様子もおびえる様子もない。少しばかり身を引いたのでマロはずうずうしく皿に顔を突っ込んだ。
 マロがあらかた食い散らかした後でやっと白い猫は尋ねた。
「……あなたは、誰?」
「俺か?俺様の名はマロって言うんだ。覚えておけや。…じゃあな、あばよ。」
 勝手に上がり込んだ上に餌を喰っておいて何たる言い草。だが大事に育てられ世間を知らぬ深窓にとって世間で野良と家持ちが闘争を繰り広げていた事など知る由もなく、また野良が家持ちを格下に見ていた事など理解の外だった。また、盗むとか取り上げるなどという事も知らなかった。
 住む社会がまったく違っていたのだから、常識も異なっていたのは仕方がなかった。白い猫はだからマロに餌を取られてしまった事も、勝手に家に上がり込んだ事もごく当然のように受け止めていた。あまりにマロが自然な振る舞いであった事も、そう思える要因であった。はたしてマロも帰り道、
「あいつは馬鹿か?」
 と、思ったほどであった。


posted 久多@麩羅画堂 : 10:59 AM | comments (0)

July 29, 2005

猫谷物語1-2-6-3

 猫谷の闘争の内には、シミとデジの間に起こった話の他にもいくつか悲劇があった。
 野良猫の雄マロは一応三毛猫であったが少し小柄で、生まれた時から野良猫であった。捨て場のデジとは幼友達であった。連れだって悪さをする事もたまにはあった。
 昨今ではかなり珍しくなったが、谷から少し離れた切り通しに鮮魚店があった。

 たいがいがガラスに被われたケースに魚介類が入っていたが、その日は特売日ということで商品のいくつかは表の棚に並んでいた。店の左右に別れてデジとマロがいた。ゴムの前かけをした店主は猫が二匹いることに気がついて警戒はしていた。しッしッと追い払ったがすぐに二匹は戻ってきて同じようにしゃがみこむ。店主は忙しくなるうちに、次第に猫共のことが頭から離れてしまった。猫は人族のそんな心の動きを見ていた。
 右側にいたマロが行動を起こした。店内を覗く素振りを見せながらゆっくりと道を歩き店の向かいに移動していった。店主は思わずマロに注意が向いてしまった。
 その瞬間、左側にいた敏捷なデジは店主の足元を走り抜け棚の上に並べてあった魚を頂戴し一目散に右へ走った。と同時にマロが店の向かいから左に走りこみデジが元いた場所に来た。デジを追えばマロが来る。店主は動きがとれず顔を真っ赤にして怒鳴るのが精一杯であった。
 かくして新鮮な餌を二匹は食う事ができた。もちろん公平に半分づつ分けて。味をしめたが野良猫は賢い。同じ手を使うのは危険な事を承知していた。
 チャンスは滅多に訪れる事がないのを知っていたから、ほとぼりが冷めるまでいくらでも待つ事ができた。野良猫は食物に関する限り辛抱強かった。
 話しは戻る。捨て場のデジが突然姿を消してからというものマロは面白くなかった。
「………あいつは何で俺に黙って行方をくらましてしまったのだろう。」


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July 28, 2005

猫谷物語1-2-6-2

 とばかりの態度をとったうえに態度と同様の言葉が口をついて出てしまったからデジは逆上してしまった。たまたま腹が空いていたから、からかう度合いが過ぎていた。ふだんから格下に見ていた家持ちに馬鹿にされたと思ったのだ。なにしろ若かったから行動も短絡的であった。
 カアッと頭に血がのぼったデジはそれでも力を加減してシミに襲いかかった。
「生意気な奴!」

 鋭い爪が肩に飛んだ。ところが不運な事に、怒声に驚き振り返ったシミの顔を真っ向から刻んでしまった。シミは顔に傷を負ってしまった。顔面に血をしたたらせ泣きながら館に帰り飼い主の人族に訴えた。
 だがシミはデジがやったと訴えても言葉が通じない。飼い主の人族は怒った。表に出てきて、こんな悪さをするのはきっと野良猫に違いないと決めつけて、野良猫と見るや片端から追い立てるやら物を投げつけてきた。野良猫たちにとってとんでもない災難となってしまった。
 悪い事は重なる。家持ちとはいえ首輪をつけていない者もいたのだった。人族は間違えて水の入ったペットボトルを投げつけた。すぐに気が付いて手当を施したが、当たり所が悪かったのだろう、不幸な家持ちはあっけなく死んでしまった。家持ちたちは野良猫を憎んだ。
 この事件から家持ちと野良猫に小さな争いが生まれた。また、この事件がなかったとしても、いつかは衝突が起こり得るほど両者に縄張りを巡る緊張があったのだ。小競り合いが続くうちに、やがて大きな闘争に変わっていき、群れるようになり東斜面では家持ちが、南斜面では野良猫が優勢となっていった。
 群れるようになると、自然と長が必要になってきた。本来であれば御掟殿と呼ばれるザキがこの一帯の象徴的な長であったが長く消息を絶っていたので勝手な自治が行われていたのだ。家持ちの長はブチという名で茶と白の模様を持つ肥満した虎猫だった。一方、野良猫の長は野良猫と家持ちの間に生まれた混血でクロと呼ばれ文字通り全身が真黒の雑種であった。
 どちらも長に選ばれるだけあって立派な体格の持ち主だ。長として統率力にも優れていた。闘争心も巧妙心も人一倍強い。だからどちらも選ばれたと言うより自ら立ったと思われた。
 直接対決の原因を作ってしまった捨て場のデジは、最初の頃に無関心を装っていた野良猫と家持ち双方の穏健派から避難を浴び、いたたまれなくなって何処かへ行方をくらましてしまった。


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July 27, 2005

猫谷物語1-2-6-1

  六 猫谷

 話は一年ほど前にさかのぼる。猫谷の南側にゴミ集積所があった。先ほどから様々な色のビニール袋に埋もれて何やらごそごそと音をたてている猫がいた。捨て場のデジだ。黒に灰色の縞模様、もちろん野良猫だが若いうえに男前だ。このゴミ集積所に捨てられていた猫で当然の権利としてここに主権を持っていた。

「………チェッ、今朝は獲物が何もねえ。このところ、しけてやがる。」
 悪態をつきながらその場にしゃがみこんだ。腹が減って仕方がない。どうせ、じきにゴミの収集車が来て追い払われるからそれまではここにいようと決め込んだ。
 この辺りは家が建て込み軒が接していた。したがって猫達のなわばりも細かく仕切られており野良猫どうしの喧嘩が絶えなかった。
 人族に飼われている猫は家持ちと呼ばれていた。野良猫からは猫と認められてもらえず、仲間に入る事も認められていなかった。したがって時には貢ぎ物などをしてご機嫌を取っていた。家持ちとはいえ年中、家の中にくすぶっている訳にはいかないからだった。食物に困らないためゆったりとした気風を持つが、常に野良猫の目下に見られており内心面白く思っていなかった。
 この日、捨て場のデジが家持ちの雌猫シミにちょっかいを出した。シミは青灰色の体と金色の眼の持ち主で若く美しい雌猫なら大抵がそうであるように美しさに自惚れるところもあった。
 ゴミ収集車が来るまでの暇つぶしで目の前の道路を歩いていたシミに声をかけた。
「おいっ、ブスシミっ。何か食い物を持って来い。」
 デジはシミがまだ年若く人族から餌を余分に手に入れる方法など、知らないはずである事を知っていた。それにシミが決して醜くはなく人並み以上の器量良しであった事も承知だ。
 シミもいつもの事だから無視したまま黙って通り過ぎてしまえば、事は起こらなかったのだろうが、
——フンッ、嫌なやつ。——


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July 26, 2005

猫谷物語1-2-5-10

 義理の父の手の中でもがきながら見上げると、涙はとうに乾いていた筈であったチクワの眼の中でキクの姿がゆるゆると歪んで見えた。
「ここでな、黙って見送るのだ。良いな。」
 ハナは抵抗を止めた。
 雨ともいえぬ細かな雨が降ってきた。梅雨が始まっていた。その中をキクの後姿がやがて闇に溶け込んでいった。

 死を迎えた猫はすべての猫の縄張りをまっすぐに通って死に場所へ行く事ができた。いかに憎みあっていたとしても誰もその道を妨げることはできない御掟であった。譲る義務があった。道中出会った猫はいずれも眼を伏せ、あるいは背けた。
 キクは、はるか西を目指して体力が続く限り歩いていた。西へ行けば行くほど極楽が近づくと猫族に伝えられていた。歩けば歩くほど生きていた間の汚れが体から離れ、魂が清められると信じられていたのだった。
 猫はけっして人族の考えるように恨みを持って化けて出る事はない。老猫があたかも自動的に化け猫に変化する事など有り得ない。人族の元で飼い猫として長く一緒に暮らしておればいやでも人族の悪しき行いを見ていた事だろう。見られて困るような恥じる行為が幻を生むのだ。猫は掟に忠実にすべてを捨てて死ぬのだ。人族の恨みは人族同士で勝手にやって欲しい。猫を巻き込まないで欲しいものだ。
 どれほど歩いたであろうか。やがて力つきようとする場所で物陰を見つけ体を地面に伏せ頭を西に向けた。
 目を閉じ手足を伸ばし全身の力を抜いた。そして念じ始めた。
 無(ムーッ)、
 似路意祈似路意祈弧魔理之破(ニジイキ、ニジイキ、コマリノハ)、
 祈更無祈更無(キザラム、キザラム)、
 業心無(ギョーシンムーッ)………
 記憶が走馬灯のように巡ったが直に白い光が満ちて来た。
 やがて二、三度かすかな痙攣を見せると眠るように死んで行った。まだ十分に若く多くの子孫を残さねばならぬ運命をその身に背負っていたが他者により断ち切られた。だがその死顔は生き切った者だけが見せる安らかな物であった。その亡骸はけっして他の者に見せてはならなかった。よしんば見たとしても、その者は見た事を一切他の者に語ってはならなかった。
 猫はすべてを捨てる。邪心がない限り復活はなかった。キクは土に還っていった。


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July 25, 2005

猫谷物語1-2-5-9

「ハナ、お前は親の欲目で見ても十分に高い能力を生まれながらに持っている。お前にはそれがまだ見えないのです。お前の持って生まれた青灰色の輝く瞳は我らが祖、ニアキスの英知を表わす象徴なのです。キバシリ、いやツヅミの代から滅多に生まれなかった瞳なのです。事の是非、事の表裏をよくよく見分けるためにある。良いか、母の遺言と思って良く心に留め置くのです。留まる者は流れる、流れる者は留まる。すべては二つであって二つで無く、一つであって一つでは無い。いやいや、今は分からなくともやがて解る時が来るでしょう。それまで学ぶのです。道ばたの石くれのように、ただそこに在るのも確かに意味が有るが、ただそこに在るだけではない存在も我らには必要なのです。良いですね。お前はツヅミでありキバシリなのです。そして、スベリでもあるのです。」

 幼い者には難しい話であったが、噛んで含めるようにさとす母のかつてない優しさにうなずくしかないハナであった。
 キクはそれを見届けるとチクワに顔を向け、
「チクワ殿、わずかな時間ではありましたが幸せでございました。最後にお前様ほどの方に出会えた事を感謝いたします。」
「我らに時間は問題ではなかったはず。俺もキク、お前に出会えて幸福であった。安心せよ、ハナの身は私が必ず守るから。」
 よろしくお願いいたしますと言ってキクは死出の旅の支度を始めた。
 二匹は生け垣の棲家から外へ出てキクを送る用意を整えた。猫丘のほとんどの猫たちが遠巻きにしていた。中にキジもいた。館の二階の窓にはナガミミの姿もあった。
 食物を受け付けなかったからキクの体は痩せ細り元気な頃の面影は失われていたが、目だけは澄んで以前にも増して輝いていた。
 丁寧に毛並みを整え、立ち上がった。不思議と肩の傷口に痛みを感じることはなかった。
 外に出て静かに一同を見渡し礼をすると、もうハナの方も振り返らずに去っていく。
「キクッ……。」
 ハナは思わず母の元へ駆け出そうとしたが、チクワが遮り
「ならぬ。ハナは母を追ってはならぬ。これは我らが猫族すべての御掟ぞ。死出の旅立ちを誰も止める事はできぬのだ。」
 と、抱き止められた。


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July 23, 2005

猫谷物語1-2-5-8

 チクワやナガミミが滋養に富んだ食物を持ってきたが、もはやキクにはそれを食う力がなかった。キクの傷は思ったより深く、手当のかいもなく化膿して日を追うごとに悪くなった。
 何日かたった。死期を悟ったキクは、夜になってハナやチクワを呼んだ。
「ハナ、私はもう助からぬ。泣くでない。生きる者は必ず死ぬ。少しばかり早くなっただけです。これから私が言う事を良く聞くのです。私は今まで生きていくためのすべてをお前に授けたつもりです。だが、さらに多くの事を学ばなければならぬ。やがてお前は今まで以上に多くの猫に会う事でしょう。そしてなぜ、この世に生を受けたのかが解る時が来るでしょう。」

「キク…。そんな事は解らなくても良い。ハナはここに生きている。それだけで良いではありませぬか。」
 ハナにもキクが助からない事は解っていたが、母がいなくなる事実を認めたくはなかった。生きている、それだけで十分だ。自分の生まれた理由が解るなんてそんな事はどうでもよい事だ。いつまでも母に甘えていたかった。
「ハナッ、そのように聞き分けのない子に育てた覚えはない。良いか、お前は母の子だ。御掟ザキ殿の子だ。この母が死ねば我ら山猫キバシリ党ザキ一族で子を成す者はお前一人になるのかも知れないのです。理由もなくこの世に生まれる者はない。我が運命をお信じなさい。」
 厳しく言い渡した後、元の優しい表情に戻り、
「これは我らキバシリ一族に伝わる話です。はるか昔の事、生と死、光と闇があるように事物は有無の二つに分けられました。惑星は命を育む環境を持つ、持たないに分かれ、命は水の環境に適合する、しないに分かれました。やがて陸上の巨大な植物群の只中に我らの祖ニアキスが誕生したのです。それはやがて樹上から地上に降りて密林に適合する者とそうでない者に分かれ、適合する者は猫になり、しない者は犬になったのです。猫は大きな者とそうでない者に分かれ、大きな者は獅子や虎になり小さな者は山猫になりました。時が経ち山猫は人に近づいた者とそうでない者に分かれ、人族に近づいた猫はイエネコとなり、そうでない者は山猫のままでありました。イエネコは人族に飼われた者と捨てられた者に分かれ、捨てられた者は野良猫になったのです。一方山猫はイエネコの脅威や環境の変化に着いて行けず滅亡したと思われていたのですが、古の血筋を営々と受け継ぎ、野生を保つ一族が人里離れた地に立派に存続していたのです。大長のツヅミからキバシリとスベリと言う名の双児の兄弟が誕生しました。やがてそれぞれが独立した党を建設しました。一族の中でも群を抜いて優れた者は代々御掟殿と呼ばれ、各々の党から選ばれよりふさわしい者が最終的に死ぬまでその任に当たりました。お前の父ザキもザキ一族の長でその一人なのです。そして選ばれた者は必ず双児で生まれるのです。ザキと叔父のキジのように。」


posted 久多@麩羅画堂 : 11:31 AM | comments (0)

July 22, 2005

猫谷物語1-2-5-7

「何と馬鹿な、今はお前様の妻ではありませんか。お前様だけが大事。しかし生まれながらの血は……ザキも私もそしてハナもキバシリ一族、これは逃れる事の出来ない事実。山猫の誇りは自らが証を立て守らねばなりません。御掟は守らなければなりません。それに、この始末は段下のキジ殿が御掟殿に替わり片をつけてくれる事でしょう。」
「そうか、キジ殿が……。ならば何も言うまい。猫どもには私から言い聞かせよう。体に障る事を申して済まなかった。安心して休むが良い。」

 段下のキジ殿とはキクがクロに襲われた際に助けに入った茶と灰色の毛を持つ者だ。キクの前夫でハナの父ザキの弟だ。ハナにとって叔父にあたる。鋭い目を持ち豊かな知識と勇猛を誇る。八幡の階段の下に住むのでそのあだ名がついた。
 ハナは遠ざけられていたので夫婦が何を語っていたか知らなかったが、母の元からもどってきたチクワの顔からは、さきほどまでの猛々しさが消えており何やら沈んだ表情になっていた。
 集まっていた猫たちに散会するよう申し渡したチクワの態度もハナの理解を超えて不思議に思えた。
——チクワは母を裏切ったのか、先ほどまで言っていた事と違う。大人は時々に変わる。——
 その後チクワは終生キクへの劣等感に捕われるようになった。果たして自分は本当にキクの夫と成り得たのだろうかと。チクワは磊落を装ってはいたが、それだけ人一倍細やかな神経の持ち主であったと言える。
「ザキへの嫉妬か、自分への憎悪か、馬鹿な。俺ともあろう者が。」
 チクワは、キクの傷で動転してしまっただけなのだと自身に言い聞かせた。
 山猫とイエネコの誇りに対する僅かではあるが遠い隔たりで、山猫の厳とした誇りの持ち様はチクワの人族との駆け引きの中で猫足らんと欲する誇りとは違っていたのだ。こればかりは双方とも如何ともしがたいものがあった。でなければ、昔別れる事もなかったであろう。チクワの意識下には、なろうとしてもなれぬ者たちキバシリ一族への強い憧れが芽生えた。だが、やがてそれは密かに確執へと変化する。
 ハナはチクワに、母の元へ行っても良いと言われた。


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July 21, 2005

猫谷物語1-2-5-6

 涙が枯れるとその形相は別猫のようであった。眼を吊り上げ瞳は憎悪でたぎっていた。眉間に深く皺を刻み髭をピシとさせ毛は逆立っていた。ふだんハナや他の者に対して常に穏やかであったから、ハナはその変わり様に驚いてしまった。
 チクワは猫谷のクロに復讐せんものと配下の者を糾合した。
 以前より野良猫、家猫の区別なく面倒を良くみていたから配下以外の普通の猫でさえ慕ってくる者が後を絶たなかった。
 素直だけが取り柄となかば馬鹿にしていただけに、母キクへの想いがチクワをこうまで駆り立てるのかと子供ながらにその力に憧れた。

 優しさには底に逞しさが必要である事をハナはまた一つ学んだのであった。
 この時を境にチクワを新しい父として認めた。
 だが、キクは違った。キクはハナが興奮気味に語るチクワの行動を知ると、ハナを外に出しチクワを呼んで苦しい息の下から言った。
「チクワ殿、早まっては成りませぬ。復讐などもっての外。済んでしまった事をとやかく言って責めても致し方のない事。」
「……しかし、キク。」
「いいえ、復讐は復讐を呼びます。私の一族には遠い昔に憎悪でのみ生きる証を立てた愚かな者たちの話が伝わっています。お前様は優しい。だから私と童を救えなかったご自分を憎んでいます。いいえ、お顔がそうおっしゃっています。その形相はお前様本来の物では無い筈。自らへの憎悪を他者に振り向けてはなりません。お前様は全てを許す広い度量の持ち主で、私はそれを尊んだからこそ妻になったのです。また、徒党を組んで踏み込めば縄張り荒らしと変わりません。それはきつく御法度の筈、御掟破りになれば丘の長としてのチクワ殿の立場が危うくなります。例えチクワ殿お一人でなさったとしても同じ事。御掟殿は決してお許しにはなりますまい。お前様ほどの方がその事、分からぬはずがありません。ここは堪えてくださいませ。」
「だが、キク……。始末はつけねば丘の猫どもにおさまりがつかぬ。」
「それは、我が夫ではなくチクワ殿の丘でのお立場。ご自分でお考えになってください。生まれた子を失ったのは残念ですが、この度は家族の問題。猫丘の猫たちを巻き込む事は、山猫キバシリ一族の誇りも許しませぬ。」
「キバシリ……一族の…。お前はまだザキの事を。」


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July 20, 2005

猫谷物語1-2-5-5

 組み跳ね絡み凄まじい格闘を繰り広げクロが逃げ出し茶が追いかけるのが見えた。
 子猫達を鼻で起こそうとしたが再び息を吹き返すことはなかった。今さら嘆いても仕方のない事であった。
「ああッ、私の子ッ……。あの時もそうだった。」
 手足が冷たくなり意識が遠のく感じがした。二年前の忌まわしい光景が脳裏に甦った。ハナが生まれた際の事であった。

今とまったく同じ光景があった。違うのはハナが生き残った事と、その場では流血を見なかった事だ。キクに未練があったクロは、キクには手を下さなかったためハナを守る事ができたのだ。同時に産まれた弟の方は連れ去られてしまった。
「用心に用心を重ねての出産であったのに……。」
 悔いの只中にあった。
 翌朝、真白い体に赤黒い血をこびりつかせ傷を負った母がハナとチクワの前に姿を現わした。喜びの朝は悲嘆に変わっていった。

 噂はたちどころに丘の上全体に広まった。
「キク殿が谷の奴らに襲われ深傷を負ったそうだ。」
「やったのは猫谷のクロらしいぞ。」
 チクワの嘆きは一通りではなかった。見舞に訪れる者達は言葉も無かった。


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July 19, 2005

猫谷物語1-2-5-4

  体力を消耗し疲れてはいたが、未来を想い描くとほっとするキクであった。乳を与え少しばかりまどろんだ。
 どの位時間が経ったであろうか。ふと、キクは眼を覚ました。疲れていたが意識は常に覚醒していた。草を踏みしめる音が近づいて来ている。用心深く忍んでいるがキクの鋭敏な神経はこれを逃さなかった。
「………他にもいる。」

 耳を反転させる。近づく音と反対側にも気配がした。
「ああ、この優しい音は夫かも知れない。来てはならぬと申しておいたのに。」
 夫と言えども出産に立ち会う事は御掟で禁じられていた。それでも何かしら温かくなるものがあり、緊張が緩んだその瞬間、最初に聞こえた音の方角から計ったように黒い陰が飛び込んできた。
「………夫ではない。」
 気付くのが遅れた。覚醒はしていたが体がまるで言う事をきかなかった。本能で守ろうとした子が一匹、たちまちのうちに血まみれになり事切れた。残る子を腹の下に隠したが、この態勢では反撃ができない。
 黒い陰を眼だけで追い四肢を踏ん張り爪を立て威嚇の叫びを上げたが、猫は本来攻撃こそすべてであり守勢は弱かった。
 瞬時に黒い陰は反転して攻撃を再開した。何としても殺る覚悟であるらしい。それはキクの肩を鋭い牙で噛みついてきた。
 肩を砕かれひるんだキクの眼に、残る子に襲いかかる陰が見えた。今は解かった。猫谷の野良猫の長クロであった。キクに以前から懸想し度々言い寄るのを嫌っていたのだ。横恋慕したクロが嫉妬に狂っての仕業であった。
 その時、怒声とともに茶色の猫がクロに飛びかかった。
「シャッ。来るのが一足遅かったか。……クロッ、貴様あ。」 


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July 17, 2005

猫谷物語1-2-5-3

 チクワの首に赤い輪があり、それもハナの気に入らない物のひとつであった。横目で見ながら新しい父とハスキー犬のハッシを重ねていた。
—お前は猫じゃないか。人族と共に生きると決めたハッシとは違う。それを何だ。首の回りをチャラチャラさせて。—
 生来おっとりとした性質を持っていたのだが、チクワの出現により最近になって自分のいくぶんきつい顔立ちに性格が近づいてきたと感じていた。そんな自身の変化に気がつき恐れ腹をたてていた。幼いながらも強い自我が芽生えかけている自身を持て余していたのだった。

 チクワは大人の分別を持っていたから、ハナに対しては着かず離れずに終始穏やかに付き合った。もっともその分別くささがハナを逆上させ、少しの事でも何が気に入らぬのかしばしば家を飛び出させていた。キクはその度に困った顔をしていたが、夜風に頭を冷やしたハナがやがては何事もなかったかのように戻ってくるのを承知していたから、何も言わなかった。チクワもなかば諦めたかのように同様の態度であった。
 ハナは生け垣の棲家にいた。チクワも近くにいたが母の姿はなかった。このところ、ようやくチクワが傍にいても平気になっていたが、相変わらず口はきかず無視したままであった。それでもチクワは新しい父親としてできる事の一つとして美味しい食物を持ってきた。それが楽しくて仕方がないかのようであった。ハナは不機嫌そうに黙って食べていたが、内心は夜の明けるのが待ち遠しかった。
 ハナに兄弟が誕生するのだ。キクは出産のため棲家を出ていたのだった。
 高速道路脇の緑地帯、低木が繁るが中でもひときわ低いあじさいの群生する中。
 キクは産所で息を整えていた。陣痛は始まっていた。やがてハナの弟になるであろう雄猫の二匹を産んだ。キクは多くは産まずそのかわり体格の良い子ばかりであった。産後の処理をし、童の体を優しく舐めていた。まだ目が開かずフニャフニャした頼りないものであった。
「この子たちがやがてハナを支えてくれる。あの娘はまだ自分の優れた能力に気がついていない。無理も無い、幼すぎるもの。でも、やがてその時が来たらこの子たちがハナの力になってくれるであろう。大切に育てなければ。」


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July 16, 2005

猫谷物語1-2-5-2

 最初は無視し続けていたキクであったが、まんざらでもない雰囲気になってきた。会話にチクワの事が多く出るようになったからだ。ハナはキクの気持ちの変化に穏やかではいられなくなった。母が遠くへ行ってしまうのではないかと不安を覚えたのだ。この時までハナは父を感じた事がなかった。チクワの出現により自分には父といった存在が欠けている事をはじめて知った。記憶にもない父であったがそれを裏切る母が憎いとも思えた。母子の会話の多くはチクワの悪口と褒め言葉になっていった。時に言葉はぶつかった。

 だが、あくまでもキクは辛抱強くあたたかく諭すような口調を変えなかった。
「お前の父はザキと言う。私の元を去るにあたってこう言っていた。」
——私には待つ者が多くある。再びお前の元に戻れるかどうか分らない。もし、二年経っても私が戻らぬ場合は私を捨てよ。お前は若い。血も正しい。多産せよ。そして産まれた子を大切に育てよ。それらはすべてが運命の子だ。けっして甘やかさず厳しく育てよ。——
 キクは姿こそ普通の猫に見えたが、山猫であった。そしてキバシリ一族の存続がかかっていたのだ。山猫通しの婚姻により血が濃くなるのを防ぐため、雄猫がそうであったように雌猫もしばしばイエネコとの間に子供を成す必要があった。力ある者、正しき者と縁を持ち子を成し育てる事がキクの大切な使命でもあった。猫族の世界では当然の事であった。猫を支えるのは猫自身であったからだ。
 婚姻の後、しばらくハナは寂しい気持ちを押さえる事ができなかった。理性はとうに母を許していたし、喜びを分かち合う事もできたが、心がきつく自身を縛りその狭間で苦しんだ。自然、母から距離を置く事になった。時間だけが今のハナに必要であった。

 日中は良く晴れていた。五月の空であった。晴れた日はまた夜を冷え込ませた。


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July 15, 2005

猫谷物語キャスト

ねこがやつ物語 野良猫ハナの生涯
昔、猫は一つであった。やがて山猫とイエネコに分かれイエネコは飼い猫と野良猫に分かれた。イエネコは争いを始めた。山猫は人里離れた地に住んでいたが、猫通しの争いを知り山から降りてきた。いにしえの力を持つ山猫は密かに人間界に住みイエネコの融和を目指した。山猫の中でも優れた者は御掟殿と呼ばれ普通の猫に比べ5倍の長寿であった。ハナの父ザキは御掟殿になり平和を確立し各地に長を立てたが長たちは代を経る毎に、掟を破り始め世は再び乱れ始めた。ザキは歳をとりその力は衰えを見せていた。ザキの弟キジの力だけでは平和を保てなくなっていた。御掟一族のキクはザキとの間に子を生んだ。ハナである。新しい御掟殿の誕生であったが、本人の自覚が必要とされていた。ハナは多くの猫たちに学びやがて御掟殿になる日がやってくる。

キャスト(登場順)

カリ(八幡の部下)チコの為なら死ぬ事も厭わないがチコを失い闘いに疲れはぐれとなる孤高の戦士。物語の語り部。

チコ(八幡の長)烏。八幡神社の杜を根城に付近一帯を仕切る。八幡様と呼ばれる。天狗のクロウと敵対する。クロウの部下バシとの空中戦で死ぬ。

カジキ(八幡の長老)烏。力が衰え長の座をチコに奪われる。

カタギ(東山の烏の長)若いチコの無謀を諭す。後にチコと天狗のクロウの争いでは中立を守る。

ゴロ(東山の烏の長)カタギの後を継いで長となる。チコを殺そうと思った事もあったが、互いを認めあい天狗のクロウとの争いでは、助けようとするが中立を守るカタギに止められる。

キク(母)優しく穏やかな丸顔、全身が白い毛でおおわれた器量良し。ハナに生きる為の基礎を教える。血筋を和らげるためチクワと再婚するが美しさゆえクロに襲われ子供を守ろうとした傷が元で死ぬ事になる。

ハナ(主人公)山猫の父ザキと母キクの間に生まれた。御掟殿の有資格者。黒い両耳と尾をのぞけば全身が白い短毛種。桃色の鼻の横に黒子。眼は黒縁。いくぶん憂いを含んだ青灰色の瞳。まなじりがきりりと上がり、耳は大きくとがり、鼻面がやや長く、男の精悍な印象。幾多の葛藤の末、御掟殿になる。強い悲しみに襲われると変化する。赤い目になり恐ろしい姿になる。

ナガミミ(犬族)トイプードルの雄。物知りでハナに様々な知識を与える。闘いの外にあって猫族烏族の興亡を見届ける。夢想家。

ウリ(猫谷の雌)捨て場のデジを救い子を成す。鼻回りと顎と腹が白く他は黒い。なかなかの美猫。飼い主の死により猫丘に移住する。あじさい橋のウリと呼ばれる。後に病気で弱っていた捨て場のデジを救い子を成す。ハラジロはウリに似てグレはデジに似る。シミから子供を守ろうとして傷つきやがて死ぬ。ハナに運命の子ハラジロを託す。ハラジロは過去にキバシリ一族に倒された邪悪な山猫スベリの亡霊の予言通りハナを苦しい立場に追い込む。

老人、老女(猫谷の住人)ウリの飼い主。老人の突然の死により老女は息子夫婦を住む事になりさまざまな事情からウリを捨てる。

ハッシ(犬族)瞳の色が青と灰色のハスキー犬。犬の誇りと自由について語る。

フジヒラ(人族)マンションの管理人。ユキエの父。

チクワ(ハナの義理の父)猫丘の長。茶と白のトラ猫。家持ち。穏和で賢い。立派な体格。面倒見が良く丘の猫たちから慕われていた。御掟殿となったハナを良く助ける。少し優柔不断な面がある。


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猫谷物語1-2-5-1

  五 懸想

 冴えとした大気が去って行った。沈丁花のいくらか鼻をさす芳香が風に運ばれて猫丘に季節の到来を告げていた。春である。
 キクは若く美しかった。優雅な身のこなしに加え全身を白い滑らかな毛が被っていた。遠くからもその噂を聞き付け、慕って来る者が多かったがザキの妻である事を知ると皆が引き下がった。

 しばらくしてそのキクが再婚する事になった。相手は家持ち猫のチクワであった。チクワは駐車場の近くの高い塀に囲まれ館の周囲を回るだけでも大変な、相当に裕福な人族の飼い猫であった。チクワはもちろんあだ名だ。その名前の由来は単純なもので、竹輪が好きだからであった。ある日、人族が竹輪を与えたところめずらしかったせいもあって好んで食べた。それで命名されてしまったからいい加減な話だ。だが、この頃彼はあまりその食物が好きではなくなった。塩気がきつく喉が乾いて仕方がなかったのであった。出されても多くは口もつけなかった。やがて名前だけが残り一人歩きをしてしまった。性質は穏和で賢く、体格も立派だった。猫丘の多くの家持ち猫に慕われて長を務めていた。
 それが春先からしきりにハナ達の棲家を窺い、時に土産を持って来てはオーイオーイと鳴く。
「俺はお前が好きだ、妻になれ。お前にザキ殿が居た事は承知だが、すでに二年経っている。俺の子を産んでくれ。」
 何度も繰り返して言うのだった。
 ハナにはまだ大人の求愛の世界が理解できなかったから、何を言っているのか分からなかった。ただ、同じ言葉を繰り返すので、
「他に何か言う事を知らないのかね。」
 と、なかば馬鹿にした口調でキクに言った。母のキクは微笑みを返すばかりであった。裕福なチクワは野良猫のキク母子が見た事もないような食物ばかり持ってくる。それを自分の前に置き、折り目正しく正座してひとしきり鳴くと帰って行った。実直だけが取り柄のようにハナには思われた。


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July 14, 2005

猫谷物語1-2-4-6

 ところどころに今では灰色になってしまった雪が固く残る駐車場を歩くと、ザクザクと音を立てながら足跡で霜柱が崩れた。多くの館の前は人族が片付けてしまい大雪の名残はどこにもなかった。
 この辺り猫丘は猫谷と異なり、新興住宅街のため高層集合住宅も多く、各々がその管理規約でペットを飼うことを禁じられていた。そのためか土地の広さの割りに猫が少ない。したがって穏やかな共生がなされていた。
 この頃になってハナは一匹で棲家からかなり遠くまで出かける事ができるようになっていた。散歩の途中ハスキー犬のハッシと道で会ったが、特に怒っている様子もなく先日の失敬な質問の非礼を詫びるとお互い立場が違うからと、かえって恐縮した様子であった。

——立場の違い?ああ、これだ。自分が考える誇りは自分だけの物だったのだ。だから異族が違っていたとしても立場が違うのだから誇りに対する考えが異なるのも当然だったのだ。——
 自我を持つ事は大切な事だ。自分の考える誇りを通す事も重要だ。だが同時に他者もハナに対して権利を行使し自己を主張する自由を持っていたのだった。だから自分では気が付かなかったが、自分の身勝手な押し付けにも似た感情をハッシに投げつけた事を恥ずかしいと感じていたのだ。先日より気になっていたもやもやが解消する思いであった。種族や立場、状況により誇りにも様々な考えや行動の仕方がある事をハナは知ったのであった。
 いつになく暖かな日であった。とある高層集合住宅の前庭の欅の木はその殆どの葉を落として冬のわずかな日差しが地面に達するのを遮ろうとはしなかった。
 この建物の管理人は名をフジヒラと言う。定年退職をして再就職でこの仕事を選んだ。妻を亡くし娘と二人で近くに住んでいた。
 昼過ぎ管理作業が一段落したフジヒラは、本社への業務連絡を終え昼食を済ませると前庭のベンチへ腰掛けた。少し離れたサツキの植え込みの隅にちょこんとハナが座っていた。何を話すでもなく空を見ていただけなのだが、フジヒラはしばらくしてからふと思い出したようにポケットから昼食時にわずかに残しておいたパンを取り出すとハナに近づいてきて与えた。餌を与える事はもちろん禁じられていたのだが、
——何、構うものか少しくらいなら。——
 と、こっそりくれたものらしい。この季節頂けるものは何でもありがたい。素直に、
「ありがとう。」
 と、言ったがむろんフジヒラにはニャッとしか聞こえない。ハナは異族の言葉を聞き取れたが、人族は猫族の言語を理解できないのだ。
 朝、ゴミ捨て場で野良猫とみるや、ホウキとチリトリで追い回す人と同一人物とはとても思えない優しさだった。何故?ニィとフジヒラの顔を見上げて聞いてみたが、仕事だからねとその人は陽だまりの中で笑っていた。一本調子で単刀直入に話しをつけ、どちらかというと根が単純なハナには、にわかに信じられない人族の不思議であった。もちろんフジヒラさんの気紛れかも知れない。だが、秩序が保たれている限り生き物は穏やかに暮らせるという事をハナは学んだのであった。
 この頃よりハナは自分が誰かに見られている気がしてならなかった。絶えず視線を感じるのであった。


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July 13, 2005

猫谷物語1-2-4-5

「驚かしてすまなかった。」
 素直に謝ってきたのでハナは許す事にして緊張を解いた。といっても樹上から降りた訳ではない。桜の幹にしっかり爪をかませていた。そして上から見下ろして気がついた事を尋ねた。
「お前の首にあるものは何だ?」
 同じ犬族でもナガミミは滅多にしている物ではなかったからだ。

「首?……ああこれか。これは首輪という物だ。この先にいつもは鎖がつながっている。」
 答えに驚いてハナは重ねて聞いた。
「それではお前に自由がないではないか。不思議に思わないのか。」
「嫌いだ、特に夏はね。でも仕方がない、これがあるから人族と一緒に暮らせるんだよ。僕たちは群れていないと不安で仕方がないんだ。昔からそうさ。だけど今は僕一人だろう。人族と一緒に暮らすしか他に方法がないのだよ。だから少しくらいの事は我慢しないとね。」
「独りでは不安だって!繋がれてそれで犬族の誇りはないのか?」
「……誇りはないのかだって?」
 声が大きくなった。少しいらだちを覚えたらしい。人族が声を掛けながら近づいてきた。ハッシは声の方を気にしながら、
「覚えておいて欲しいな。僕たち犬族の誇りとは、主人(あるじ)に忠誠を誓いそれに殉じる事なんだよ。それがいちばん大切な事なのだ。僕たちの喜びとは主人の望みに応える事なのだよ。それが達成された時に主人の喜ぶ顔を見るのが僕たち犬族の最高の誇りなのだ。別に主人が人族とは限らないがね。」
 じゃあと言いながらハッシは人族の元へ駆けて行った。
——機嫌を損ねたのかな。それにしてもなぜハッシは主人に殉じる事が大切などと言ったのだろうか。自分だけの事に忠実に生きていくと言う事が難しいのかな。——
 ハナはそのまま樹上から、人族の回りをハッシが尻尾を振りながら楽しそうにしている様子を見ていたが、何やら見当違いの恥ずかしい質問をしたような気がして考えこむのであった。


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July 12, 2005

猫谷物語1-2-4-4

 雪は夜通し降って、次の日も続いた。その日の夜半を過ぎてやっと止んだ。まだ厚い雲が天空の全周を被っていた。地上の全てが丸くなっているのが見えた。わずかな光を吸収して、雪自体が発光しているかのように輪郭を描き出していたからだ。丸みの表面から雪の粉がかすかに吹く風にサラサラと音を立てて離れていった。湿気はなかった。突然雲間にビキビキと稲妻が走った。瞬時のうちに天と地上との間に赤みを交えた銀色の細い枝を従え眩く光る太い柱が幾本も立った。次いでドガラッ、ドガラッ、ドッシーとすさまじい音が鳴り響いた。

 ハナの瞳孔は大きく開かれていたから、明るすぎる光に一瞬目が眩んでしまった。強い光は美しいがそれに照らされる他の部分は闇に隠されてしまう。ハナはそれが不思議でもあり同時に恐怖を覚えた。だが雷光に瞬間青白く輝く陰影の濃い壮絶な美しさを確かに脳裏に焼き付けた。
 それは二、三度繰り返されやがて元の静寂が戻ってきた。雲が切れて月が姿を現わし辺りを照らしだした。先程と異なり穏やかな美しさであった。ハナはホッとした。

 あくる朝、すべてが白銀に輝いて眩しかった。人族の何やら停止を命じる叫び声が聞こえた。まだ陽が低く当たる駐車場に小さな長い陰が転がるように走った。大きな陰がうねるように後を追った。雪の上に転々と小さな足跡が残り、はるかに幅のある深くて大きな足跡がその上を被うように続く。小さな陰は雪に足をとられて思うように駆ける事ができない。たまらず桜の木に登った。荒い息のまま、
「なぜ追う。」
「君が逃げるからさ。なぜ逃げる。」
「お前が追ってくるからだ。」
 必死になって逃げていたのはハナであった。
 迷惑な話なのだが、駐車場では時々運動場がわりに鎖を放たれた犬族が一時天下を取る。ハナを追いかけたのは駐車場に現われる犬族では群を抜いて大きな犬であった。瞳の色が青と灰色のハスキー犬で名前をハッシという。冬が何より好きであった。厚い毛皮をまとい暑さをかなり苦手としており、夏には動くのも大義そうで舌を出しハァハァいわせながら情けない顔をしていた。以前からしばしば目にしていたし、親しくはないが挨拶くらいはしていた。性格は優しそうで気が良い奴に見えた。
 だが、近年まれに見る大雪にすっかり興奮してしまったものらしい。今朝のように急に親しげに接近してくると恐怖が先立ち逃げずにはおれない。で、先程の逃走追跡劇が起こってしまったという訳だ。


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July 11, 2005

猫谷物語1-2-4-3

 朝からどんよりと曇っていた。ハナはいつものように駐車場に出ていた。この頃車族の屋根が好きで良く上っていた。
 陽が出ないと気温が上がらず、空気はいつまでも冷たいままであった。ハナはひたすらしゃがんでじっとしているしかなかった。
 時折鼻水が出て困る事も度々であった。一度などは人族が寄って来てハナの頭を撫でようとして鼻先に手を伸ばして来た途端バシッと音がして火花が散った。静電気が悪さをしたのだった。一瞬の事だったのでハナには何が起こったのかまるで解らなかった。ただしばらくは鼻が痛かった。

 体を動かさずに眼をつむっているといろいろ考えてしまうのだった。だが浮かんで来るのは皆食物の事ばかりであった。却ってひもじさだけが頭いっぱいに広がる。で、考えるのをやめてしまった。
 地面も朝より冷たさを増して凍ったかのようだ。草族はぎりぎりと根元を締め付ける土の圧力に抵抗するのをとうにあきらめ茶褐色になった身を横たえひたすら明るい未来に思いを馳せているようだった。
 やがて夕刻より白い物が空からサラサラと音を立てながら降って来た。最初は細かく粉のようであったがじきにヒラヒラと春の桜の散る花のように大きくなってきた。鼻先に舞い降りた物の冷たさにハナは思わず身震いするのであった。雨よりもずっと冷たく氷より温かい始めての経験であった。手といわず体といわず無遠慮に降り積もったそれは体温で溶ける。その繰り返しのうちに毛が濡れてしまった。猫は濡れるのを嫌う。しばらく車族の下に隠れていたがやがて母の待つ生垣へ戻って行った。体こそ一人前に大きくなっていたが母の温かさが好きであった。
 白い花びらは止むことを忘れたかのように次々と落ちてきた。いつもなら高速道路の方から車族の雄叫びが聞こえてくるのにその日は妙に静かであった。ハナの鋭敏な耳から音が失われていき、次第にしんとした静寂が辺りを支配していった。
 この日は暮れるのがいつもより早く感じられた。ハナはこの白く冷たい物がナガミミから聞いて雪と知った。ナガミミは夜こっそりと館を抜け出し食物を持ってきてくれたのだった。時々運んでくれる物は口一杯のドッグフードの類であまり美味しいとは言えなかった。だが、今夜は人族に祝事があったそうで肉の塊であった。キクは礼を言ったが、ナガミミはいつもという訳ではないからと、軽く会釈をして帰って行った。
「ナガミミは今夜、飯抜きかも知れない。」
 と、キクはハナに言った。胸が熱くなった。ハナの持つ人一倍優れた感受性のせいか知らず涙が出た。ナガミミへの感謝の気持ちからか、ゴミを拒みながらも施しは受けたという母の気持ちが解らなかったのか、なぜ涙が出るのかは解らなかった。


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July 10, 2005

猫谷物語1-2-4-2

「ハナ!キクは自分が恥ずかしい。お前にそのような事をさせていたのか。」
 誇り高いキクにとって娘のハナの行動は許しがたいものであった。
「でも楽です。」
「楽?ハナは楽でさえあれば何をしても良いと考えていたのか。心卑しき身に落ちてはならぬ。」

「しかし腹は言う事を聞かぬ。仕方がないではありませんか。それに盗んだ訳ではありません、ここにあった。ただそれだけではありませんか。」
「お前は私が飢えさせたと言うのか。必要以上の何を望むのだ。お前が飢えると言うのなら私が代わってゴミを漁ろう。それを食うが良かろう。ハナ、己の姿だと思って母を見ているが良い。」
 そう言うとキクはゴミの中へ分け入り頭から突っ込んだ。しばらくして引き上げたキクの美しい顔は口といわず鼻といわず汚濁にまみれていた。
 ゴミを漁る母の姿を見てハナは恥じた。あまりにも浅ましい姿に思えた。
 自らの知恵と力で獲物を捕らえねばならないとキクの姿はそれを語っていた。また、ハナもそれを聞く力を備えていたのだった。
「キク、解ったからもう良い。」
「解りましたか。平にして安は平猫ならば許されるが、お前は静にして迫であらねばならないのです。」
「おっしゃる意味が良く解りません。ハナは特別な存在なのですか。」
「今は解らなくても良い。いずれ時が来れば自ずと解るでありましょう。」
 それからは決してゴミに近付く事はなかった。


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July 09, 2005

猫谷物語1-2-4-1

第二章 破壊


  四 雪雷

 冬が訪れあらゆる色がその彩度を落としていた。
 街は歳の暮れ特有の気忙しさで動いていたが、この辺り猫丘は常と変わらぬ静けさを保っていた。だが、ハナ達野良猫にとって辛い季節の到来でもあった。しばらくは寒いうえに餌が少なくなるからだ。


 朝、吐く息が白くなった。もわッとしたものがハナの鼻のあたりにまとわりついてまもなく大気に溶け込んで行った。腹が空いている上に昨夜の冷えが体の芯まで凍てつかせ、動きがぎこちない。
 なにしろ一年中毛皮一枚で暮らしているのだ。夜間に活動しているため昼間のうちに眠らなくては体がもたなかった。生垣の下にある壁の前で丸くなってうたた寝をしていた。幸いここは北風があたらない。陽が出てさえいれば十分に暖かいのだ。

 ハナは人族の子供の無邪気が嫌いであった。その行動に予測がつかない上に乱暴だからだが、今朝のようにことさら寒い朝はなおさらであった。
 じっと目をつむり、せっかく良い気持ちになっているところへ幼稚園へ登園する人族の子供達が寄ってきてやたらと触った。帰りも同じ目にあうのでハナはいい加減うんざりしていた。
「気安く触るな。」
 と、一声鳴いてむくれてそっぽを向いてしまうのも度々であった。
 結局のところ、ハナは折角見つけた朝寝の場所をより条件の悪いところへ移動せざるを得なくなってしまうのだった。
 そのようなハナであったが、ゴミの収集日を守らない人族は好きであった。早朝の寒さを嫌って夜間こっそり駐車場脇のゴミ置き場に黒いビニールに入れた物を置いていってくれるのだった。
 決まりを守らぬ人族は大概が決まっていたので、靴音やサンダルの音で聞き分けその人族が館へ帰るとハナは尻尾を立てていそいそと向かう。狩りをしなくて済むので贅沢は言っておれなかったが、臭いを嗅いで当たりをつけてから、口と爪で袋を裂き結構良いものにありついた。

 ハナは娘なのだが父親の血が濃いせいか体格において他の猫を圧倒的に上回っていた。そのおかげで何匹か集まって来たとしても皆は近づいて来ず、悠々と貪る事ができたが何かの事情でハナがそこに居ないと争奪戦が始まるのが常であった。
 キクはしばらくの間、ハナの行動を知らなかった。ある夜の巡回中に偶然見つけるとその場で厳しく叱った。


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July 08, 2005

猫谷物語1-1-3-5

 雨は降り止まぬ。ときたま転がり落ちる土の塊が龍の命の名残を留めていた。
 一つの黒い塊が落ちてきた。それは振り返ったウリの目の前に来てゴトッと音を立て停止した。雨に洗われて次第に薄い茶の色を帯びた形になっていった。猫の顎のないされこうべが現われ両の眼の窪みに青白い光が宿った。激しく打ち付ける雨の音は消えていた。ウリの心に言葉が発せられた。

「オオウッ!この時を俺は何年もの間、待っていたであろうか。だが世は乱れ光のひとつも無く暗黒のままだ。何も見えぬが我が下僕(しもべ)ウリよ、お前の姿は感じる。お前は人族を信じ愛し裏切られ捨てられた。愛は憎悪を宿す。憎しみは裏切りを紡ぎ、裏切りは狂気を孕(はら)む。やがて狂気は破滅へ直(ひた)走る。全てはお前の運命だ。」
 されこうべはここで一旦言葉を切ると、しばらくウリの胎内を探るようにしていたが、
「ウリよ、聞け。我を助けよ。力を持ちて暗黒に光を掲げよ。この混濁に終止符を打つのだ。我が魂の乾きを癒せ。」
 ウリは聞く。
「はて、我を助けよとは、お前様に何をせよと?」
 ウリの心の中に語り掛けるされこうべの言葉は一段と高揚し吐く息の熱さが感じられた。
「フフウッ、知れた事、我の子を成せよ。我の名はスベリ一族。」

 言葉が終わるとともにされこうべは砕け散り姿を消した。ザアッと雨の音が戻った。ハッと我に返ったウリはしばらく辺りを見回していたが、
「はて夢であったか、それにしても不思議であった。されこうべなど、ふるふる。ああっ、雨は嫌じゃ、何処かへ隠れねば。」
 そう言うとウリは龍の鬚から離れて行った。


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July 07, 2005

猫谷物語1-1-3-4

 鳥族の中にはその樹族の枝葉に頼る者や、家の軒先で頭を羽の中に包み風の抵抗をかわそうとする者達もいた。
 風に翻弄されながらあらゆる物が飛び去って行く。穴の開いた風船のように、奇妙な弧を描きながら北へ跳ね飛ばされた者は持ち堪える事の出来なかった鳥族であった。

 野良猫どもは物蔭や庇の下などに難を逃れていたが、多くは固く目を閉じ四肢を詰め、体温の低下を防ぐため体をできる限り縮め、雨に打たれるままにひたすら忍従の態であった。
 人族はといえば多くは家猫とともに館の内に閉じこもり不安気に天空を見上げるばかりであった。
 ウリがいた。いまだに野良猫の身であった。消防団員とおぼしき人族が数人現われたが眼の前で足早に引き返して行った。
 あいかわらず崖下の家の庇の下に雨宿りしていたが、その瞳に一瞬、緊張が走った。悪しき者の胎動を感じたのだ。
 猫谷、南側の急斜面の赤土の上にチロチロと一本の細い水の道が生じた。やがてそれは本数を増し、細かい土砂混じりの幾つかが束になって太くなった。崖の中腹をコンクリートで被ってしまったためか、本来、雨水を吸収する樹族の数が圧倒的に足りない。したがって雨を遮る葉も少なく雨は直接に大地を叩く。表層の赤土は徐々に雨水を含んで黒さを増し重くなった。大地に生きる者達へ無言で圧力をかける。
 初めにその重さに樹族が耐えられなくなり、次いで草族が自身の根さえ持ちこたえられなくなってきた。彼等の肉体は十分な柔軟性を持っていたが、限界はあった。
「カッ、無念なり。もはや我が身はこれまでか!」
 ビシッという自らの肉体が破裂する音を聞いたのが彼等の最後であった。意識が遠のくと同時に、つい先ほどまで善人であった彼等が、魔物の仲間に豹変した。崩壊の始まりであった。
 樹族たちの魔物への変化を見た瞬間、ウリは全神経と筋肉を最大限に解放すると、本能の命じるままに行動を起こし、雨の最中に跳ね飛んだ。
 崖の上部に小さな裂け目が現われたと見るや、ズズウッと音を立てそれは左右に急速に拡がり大きな傷口を開けた。全身の至る所に緑の角を生やし、太い胴体の鱗から赤黒い血液を噴出させた龍は、咆哮を上げながら恐ろしいほどゆっくりと、念入りに周辺を巻き込みながら、今は住む者のない、ウリが親しんだ家を確実に飲み込んでいった。
 その邪悪な髭がウリを捕え掛けたところで突然龍の命が絶えた。


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July 06, 2005

猫谷物語1-1-3-3

 食べ終わるのを見届けると、丁寧にその皿を洗い、新聞紙に包み鞄に納めた。そして、ウリに合掌して何やら念じると息子夫婦の車に乗り込んだ。
「ウリよ、なにとぞ許しておくれ。元気で暮らしておくれ。」
 老女の目はそう言っているように感じられた。老人にとって暮らした土地を去る事は過去を捨てるに等しい。身を切られる思いであった事であろう。

 人族の中には生きる事に自信を失い、出家する者が後を絶たないと言う。だが、捨てられ残された家族は、それでも過去を引き摺り生き続けなければならぬのだ。これを身勝手と言わずして何と言う。理由の如何を問わず今のウリは捨てられ残された家族と同等であった。
 老人に比べ自分に距離を置いていた感じの老女の、今朝の今までに無い共有の時間に観念したのだろうか追う事もせず、もはや雨戸が閉じられた縁側の下から、去って行く老女をじっと見詰めるウリであった。
 餌をやらねば、なれ慕うような事もなかったであろうが、今さら老女を人族の誰が責める事が出来ようか。やはり「止むを得ない」事情であった。だが、年に何万匹もの命が保健所でその生を空しくする事を思えば、飼われた者達にとって人族の事情の軽重は問題ではなかったのだ。
 ウリは再び天涯孤独の身になった。

 びよおう、びょおおう………
 朝からまとわりつくような湿り気を含んだ強い風が吹いていた。やがて南の空が濃い灰色から漆黒に変わり大粒の雨を伴う暴風になった。
 地に生き、天に生きる者のそのすべてに容赦なく襲い掛かってくる巨大な大気の渦、台風であった。
 おうおうと怒鳴り散らし目の前にあるすべてを押し退けながら、己の破壊力さえ持て余し気味に大気を振動させながら駆け抜ける、はずであった。ところがどうした事かこいつは道に迷ったのか、その場に立ち尽くし駆けるのを忘れたかの様子だった。
 踏みつけられた場所は堪ったものではない。横殴りの雨が依然として続く。草族はとうに抵抗を止め嬲られるがままであった。
 欅や楠など樹族は、荒ぶる風雨神を罵りながらも、必死になって、
「もう一時の辛抱ぞ。頑張れ、負ければ欅の名が泣くぞ。」
 と、声を掛け合い根足を踏ん張り励ましあっていた。


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July 05, 2005

猫谷物語1-1-3-2

 老人の常にない状態に驚いたウリは、台所で朝食の後片付けをしていた老女の足元へ駆けこみ「大変だ、大変だ。」と声をあげてぐるぐると回るばかりであった。老女の耳には、なにやら催促しているような短いニイッ、ニイッ、という鳴き声に聞こえたものであるから、

「……何だろうね、この子は。さっきご飯をあげたばかりじゃないか。」
 と、適当にあしらっていたのだが、あまりにしつこいので胸騒ぎをおぼえ、ふと老人を呼んでみたが返事がなかった。
 老人は救急車で病院へ運ばれて行ったまま、再びわが家にその姿のまま帰って来る事が出来なかった。
 しばらくは老女がウリの面倒を見ていたが、老人の息子夫婦が迎えに来て遠くで一緒に暮らす事になり、慣れ親しんだ家を手放す事になった。先方は集合住宅のため、ウリを連れて行く事はできない。不憫である。が、人族の都合では仕方の無い事であった。新たな飼い主を見つけるべく八方手は尽くしたものの、ウリの出自がはっきりしない孤児であったためか、なかなか引取主が現われないまま、ついにその日が来た。
 別れの朝、ウリはそれを察したのか不安気に老女の足にまとわりついて、一向に離れようとしなかった。
 老女はウリのためにいつも使っていた給餌用の陶器皿に、最後の鮭ご飯を盛り付け馳走し、はぐはぐと食うウリを静かに見守った。
 うつむきかげんの老女の表情は深い皺に被われ彼女以外の人間にはその感情は窺えなかった。ただ、ウリの成長は老人とともにあった歳月のうちのいくらかを潤していただろうことは想像に難くない。また、生涯の伴侶が生前最後に会話した者が自分ではなく、目の前で無心に飯を食うウリであったかも知れない事実も彼女は認めざるを得ない。はたして何の会話があったのであろうか、それとも何もなかったのか。ウリに聞く事の出来ない自分の会話能力を恨んだ。だが、同時に老人の意識の最後が独りぼちではなかった事に感謝していた。


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猫谷物語1-1-3-1

 三 孤猫

 運命はこの世に生を授かったその時に既に定まっている。逃れようとして逃れるのならば、この世に不幸は無いのだ。不運の遺伝子は生き続ける限り体内から立ち去る事は無い。


 猫谷の南に崖があった。その下に所有者の歳月とともに歩み、数多くの思い出を柱に刻んだであろう木造瓦葺きの平屋の一軒家があった。
 閉じられた雨戸の前に若い雌の野良猫が佇んでいた。鼻回りと顎と腹が白く他は黒い、なかなかの美猫であった。名をウリと言う。
 毎日のように決まった時間に訪れ、やがて季節が一つ過ぎようとしていた。アブラゼミがわんわんと喚き散らす中、きっちり前足を揃え直立不動のまま、こころもち小首を傾け足元に濃い影を宿していたが、やがてヒグラシが鳴き始める頃、寂し気な後姿を門の外に見る事が出来た。

 その家には夏の初めまで老夫婦が住んでいた。子供はいたが成人して後、遠くで所帯を構えていたのだった。優しい老夫婦であった。身寄りもなく幼かったウリは時々に餌をもらっていたのだが、やがて二年も経つ頃には家の中に納まり家猫となっていた。ところが、それと前後して老人が倒れた。

 その日は晴れていた。軽い朝食の後、老人はどっこいしょッと縁側にあぐらをかき、胸のポケットから老眼鏡を取りだし、顔にかけこころもち顎をひきぎみに、床に広げた新聞を読み始めた。長年の日課であったが今では惰性かも知れぬ。小さな活字を追うのが多少苦痛になっていた。
 老女は老人の座っている傍らに熱い茶の入った湯飲み茶碗を置くと台所へ立った。
 見出しを追う老人の網膜は、広げた新聞紙の上に黒い染みが拡がるのを認めた。と同時に視界が急速に狭まる。振り払おうと首を傾げた瞬間、脳の中で何かがドクンと鳴った。体が揺らぎ何かを言おうとしたが、まるで自由が失われていた。朧の中に自分を見つめる愛猫の瞳だけが残りやがて消えた。

 いつものとおり、ウリは老人の膝の上でうたた寝を楽しんでいたのだが、背中をさする手の動きがふと止んだ。次いでウリの上に被いかぶさるように前のめりになり、やがて横へくずれゴトッと音をたてた頭部はそのまま大きないびきをかき始めた。


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June 27, 2005

猫谷物語1-1-2-11

 ハナは目を見張った。今の今まで平らに見えていた物が、すべて球体に見えたからだ。同時に、駐車場が爪先にも満たぬ大きさである事を知った。

無論、緊張から四肢を踏ん張ってはいたものの、始めて見る世界の広大さがそれ以外の全てを圧倒していた。体が震えた。恐怖ではなく興奮からであった。声も高く、
「チコッ、何と素敵な出来事だろう。」
 恐ろしさに悲鳴を上げるとばかりに思っていたハナの様子にチコは驚いた。地上を四肢で徘徊する者が足の着かぬ空の世界を楽しんでいる。それもこんなに小さい奴が。こいつ、やはり只者ではないと思った。
「そうか。」
 と、言い終わらぬうちに、ハナの背中を掴んでいた足から緊張が緩んだ。大気の中で接点を失ったハナの体は当然の様に重力の法に従った。
 落ちて行くハナは別段慌てる事もなく手足と尾を精一杯に伸ばし飛びたいと念じた。だが、願いは空しく頭から耳の先へ、そして体を伝って尾の先端から大空に消えて行く。体が自由にならず回転を始め、あれほど小さかった駐車場がみるみるうちに迫って来る。くるくると回る視界の中に母の姿がツっツっと見える。母の姿を認めて始めて何かを失うのではないかと言う恐怖の念が起きた。そこでハナの体は停止し、次いでググッと空に引き戻される感じと共にチコの声が聞こえた。
「どうだ、恐ろしかったであろう?」
「自分で飛ぶ事は諦めた。」
 これには、チコも開いた口が塞がらなかった。
 だが、地上に降りるやハナは一目散にキクの胸の中に駆け込み顔を埋めて泣いた。強情を装ってはいたが、やはり子猫であった。しかし嗚咽しながらもこの飛行体験は記憶に留められた。
 この時点で一匹と一羽は知らなかった。二つの運命の歯車は彼方より密やかな音さえ上げる事なく近づき牙を絡め噛み合い、やがて各々の運命(さだめ)の中に尋常な生涯を大きく変える仮借無き転向点の到る事を。
 互いに異族ではあったものの、今は歳の離れた友として夏の一日を楽しみ、不安の微塵も見せる事はなかった。


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June 26, 2005

猫谷物語1-1-2-10

「フンッ、良い質問だが同時に悪い質問だ。良い質問とは、自分が知らぬと言う事を相手に知らしめる事だ。悪い質問とは、自分が知っている事をわざわざ尋ねる事だ。だが、聞かれた以上答えねばならぬな。訳はない生まれた時から黒かった、それだけだ。お前はどうだ?お前は自分の体の色に理由を付けられるのか?」

「いや、ハナにも解らない。答えようがない質問を悪い質問というのか?それでは、何故チコはハナより高く長く大気の中に在る事が出来る?」
「先程より上等な質問だな。俺達烏に限らず鳥族はすべて飛行する術を持っている。体がその様に出来ているとしか答えようがないが、俺はある日、両親が飛行するのを見て無性に飛びたいと願った。飛びたい、飛びたいとな。すると体が浮いて足が地を離れ、体が軽くなった。一瞬の事であったが、気分が良かった。このように腕を伸ばして指先から肩にかけて力を徐々に強め、地をたたくと同時に足を使って跳ねるのだ。」
 チコがその通りにすると風が起こり土埃が舞い上がり、ハナは思わず目を閉じてしまった。次に見たのは遥か上空に在るチコの黒陰であった。
 ハナはチコに教えられたように飛びたいと願い、前足を伸ばし力を付け後足で地を蹴ったが、腰が浮くだけであった。場所を変え桜の木の幹からも試みたが、ただ落ちるだけであった。
「無駄な事はするな。己に与えられた力の中で精一杯生きる事だ。お前には暗闇を見る目と獲物を仕留める牙がある。我らには無い物だ。」
 天から声が降ってきた。
 それでも、ハナは止めようとせず、辛抱強く繰り返した。キクも好きなようにやらせ諦めを待った。
「猫は飛べぬ、飛べぬ運命を何故甘受せぬ。」
「やって駄目なら諦める。だが、試している最中は諦めと無縁ではありませんか。」
 最初にハナの頑固さに折れたのはチコであった。とうとう、
「それ程空を飛びたいのならば連れて行ってやる。」
 と、言うとハナの背中を掴むや地を離れた。たちまち一匹と一羽はキクの視界から消えた。


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June 25, 2005

猫谷物語1-1-2-9

 キクとの世間話も尽きたとみえ、チコは一瞬身を低くしたかと思うと、大きく羽を拡げビッと一打ちし再び空へ舞い戻って行った。その後も暇を見つけてはキク母子の元を訪れるようになった。来る度に鼠など猫の喜びそうな土産を持参した。この様な外見に似合わぬ細やかな心配りがカタギとの一件以降チコの身に付いていた。

 案外子供が好きであったチコは幼いハナが気に入っていた。構うのが楽しいらしく、ハナがムキになって向かって行くと、ひらりひらりと身を転じて避けた。草地では子猫のハナがいくら頑張ったところで跳躍は自身の体長ほどであって、チコの羽ばたき一つでハナの鈎爪は空を切ってしまい、かすりもしない。「カルラララッ」と笑われるのが精々の事であった。
 ハナは平地での正面きっての闘いが不利である事を悟っていった。逃げれば追う。追えば逃げる。対峙した場合、地と天の生き物であるから、そのままでは一向に埓が明かない。烏に空から強襲された場合平地にある猫は弱い。したがって体を常に闇に置き隠密行動をとるしかない。猫にとって唯一の攻撃手段は物影や草族等の影にあって身を伏せ、地に降り立った烏の風下から忍び寄り跳躍し一気に首か足を狙う。または樹上の枝葉に隠れ相手が油断した時に飛び降りざま全体重を四肢にかけ背中を襲い、急所を犬歯で噛む。これだけだ。
 実際のところはどうかと言えば筆者は餌を挟んで対峙する現場を観たが、たいがいは猫がその緊張に耐え切れず餌を放棄してしまい烏が悠々と食っていた。無論、成長した者同士での話ではあるし、餌に困る環境でもなかったからだが、案外この辺りの猫は諦めが良いものと見えた。
 いずれにせよ、チコはハナと戯れていたつもりであったが、ハナは烏との闘争技術をチコからそれと知らずに学んだといえる。
「俺の名はチコと申す。」
 本気ではなかったが、しばらくしてチコが油断した隙に、ハナはチコの背中に乗ってしまった事があった。本来であればチコの驚愕の表情はそのまま永遠の終章を物語るものになっていたはずだ。ハナの牙は確実にチコの首に向けられていたからだ。ハナの爪はチコの羽の根をしっかりと捕捉し、飛び立てない様にしていた。一瞬の出来事であったが、これにはチコも驚いて、その後はハナを一人前に扱うようになった。
 何故ならチコが自身の名を相手に告げるのは、相手を対等に見た時に限られていたからだ。
 ある日、ハナはチコに気に掛かる事を二つ尋ねた。
「チコの体はピカピカと輝いて美しい、だがどうしてお前の体は黒い?」


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June 24, 2005

猫谷物語1-1-2-8

 この辺りの天空を制しているのは端太烏であった。カアーッと啼く。
 もう一方の雄は端細烏だ。ガアーツと啼く。名前の由来は嘴の形からだが、その啼き声は太ければ低く、細ければ高い音を出す管楽器と異なっており面白い。留鳥だから一年中見る事ができた。烏はその獰猛さとか、死肉を漁るので忌み嫌われているが、本来家族を形成し、愛情豊かに子育てをする。他人の巣に卵を生んで他の卵を蹴落としぬくぬくと育つ輩とは雲泥の差だ。その黒い姿から死神の代名詞のようになってしまったが、古来より神の使いとして崇められていた存在だった。


 但し油断はできない。異常に執念深い。石を投げたり苛めたりするとしつこく追いかけてくる。電線に十何羽も止まっており、頭目の「ケエッ」という合図とともにそれらが一斉に標的目がけて、無言で滑空してくる様は不気味だ。筆者も実際の現場を観た事があるが子供には注意してあげたほうがよい。
 しかし、それも忘れないという学習能力があるからだろう。知恵もある。道路に木の実を置いて車族に轢かせ殻を割るなど朝飯前なのだった。遊びも好きだ。鉄道の線路の上に石を置いたのは天狗のクロウの手下であった。動輪に轢かれ石が砕け散るのが面白いのだろう。
 だから今、チコはよく動くハナに対して好奇心を抱いたものと見えた。
 やがてチコは車族の下に潜むキク母子を見つけた。きっちり距離を測っておりある地点からは踏み込んで行かない。礼儀というよりお互いに持って生まれた自己保存の本能からだ。
「おッ、キク。お前の娘か。」
 その偉丈夫に似合わぬ声の持ち主であった。
「冬でなくて良かったな、餌の少ない季節であったら……」
 と、口の端をゆがめ、その黒く良く輝く小さな目を細めニユッとした。目の光りが一瞬薄くなったが、直ぐに元の輝きに戻った。
 チコは幾分、気分屋ではあったが、手下の面倒を良く見た。野性の目で観れば自分の地位を保つためと割り切ったものかも知れない。若い頃は無茶もした。逆上しやすい性向を持っていたのかも知れないが乱暴狼藉も日常だった。力に頼って長になったが、長になってしばらくの後に、東山の烏の長カタギとの闘争で傷ついてからは、その荒々しい性格もぐんと退き、今や押しも押されもせぬ八幡様と呼ばれていた。


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June 23, 2005

猫谷物語1-1-2-7

 黒く太い足の先に伸びた鋭い刃のような鈎爪は、ハナなどたちまちのうちにボロ布にしてしまうかと思われた。見るからに恐ろしげな青黒く光る羽と隆とした巨大な体躯を持つ端太烏であった。ここ猫谷の東、八幡神社の杜にひときわ大きな楠がある。そこを根城に付近一帯の空を仕切っていた一群の長だ。名をチコと言い、配下は四千を下らないといわれていた。

 母はとうに第一等の警戒を解いていた。近づいた羽の音で相手が誰か解ったからだ。小なりとはいえ、キクも代々続いてきた土地持ちで、由緒ある山猫一族の血筋をひく者だった。猫丘一帯の猫族から敬われていた存在でもあったのだ。チコは自分が力だけで成り上がった過去を持ち、正統に対する憧れからキクにだけは敬意を表していた。だからと言って友という程の仲でもない。猫も烏も獰猛さにかけてはひけをとらないが、丘の上では生きるために互いの力を認め合う暗黙の了解がなされていたのだった。飢えを知らない季節でもあった。
 チコは領空の巡視の最中であった。
 谷があれば山もある。
 猫谷の西に烏山がある。そこでは天狗のクロウを長とする烏の一群が勢力を伸ばしつつあり、隙あらばとチコの領空を狙っていた。
 自然の摂理は時として残酷である。一定の猟場では生存できる種の定数が限られている。飽和状態になるとそれは餌の減少を招き、ひいては種の絶滅を意味する。野生の世界では命の定員が定められていたのだった。
 それが、先頃よりクロウの配下の者が数羽しきりに出現するようになった。チコは長として常日頃怠る事の無かった領空視察の飛行回数をさらに増やしていた。その巡回中、たまたま駐車場で機敏に動き回る妙な奴を発見し降りてきたものであった。で、誰何しがてら少しばかりからかおうとしたのだった。
 その恐ろしげに黒光りする巨大な嘴から声を掛けられたハナは、それが何者かをまだ知らなかったから、ただただ恐ろしく気が動転していた。喉が異常に乾いた。
「お前こそ、何者だ。」
 と、言ったが思うように舌が動かず声にならなかった。
 とにかく大きく口を開き、耳を後に反らせ、眉間に深い皺を刻んで瞳を怒らせ背を高くし反攻の態勢をとった。キクは何時までたっても助けに来ない。ハナは考えた。今は自分で身を守るしかない。このまま威嚇するか、逃走するか葛藤の末、反転して母の懐へと逃げ帰った。
 小さいくせに一人前の真似事をするハナにチコはひどく興味を持った。肩を揺すらせながらザッザッと足音も荒く後を追った。


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June 22, 2005

猫谷物語1-1-2-6

 ハナは触れると意味もなく転がる砂利に前足で蹴りをいれたり、捨てられていた紙コップに爪をたてたり、元の形が何であったか解らないほどボロボロになるまで噛みついたり、そうかと思うと押さえ付けられた草族が反発して細胞内の活力でハナの顔をしたたかに打ってみせると、思わぬ反撃に驚いたかのように跳躍を繰り返す一人遊びに夢中であった。ツユクサの生い茂る地面を必死になってハナから逃げ惑う小さい虫なども格好の獲物になっていた。

「痛うッ。」
 敏感な桃色の鼻を蟻に噛まれたのだ。両の前足で払い落とそうとした。蟻こそ迷惑な話だ。そうはさせまいとヒゲに飛び移りざま再び噛みついたからハナは混乱して仰向けになってしまった。野性の動物にとって危険な態勢になった。
 と、その時、ハナを見守っていたキクの触毛に緊張が走った。全身の骨と筋肉そしてそれらをつなぐ腱がギューッと音を立て、目やヒゲや耳を総動員させ全神経を集中した。何者かが高速で接近する気配を察知したのだった。猫の聴覚は人の約三倍といわれ犬よりも優れており、中にはこうもりと同等の聴覚の持ち主もいた。キクがそうであった。人が直立歩行という特異な進化を遂げた時から失った能力のひとつだ。
 まともに陽を見てしまい一瞬目の眩んだハナの瞳に黒い陰がよぎった。と、思う間もなくそれはハナの全身を被うばかりに大きくなった。
「誰だよ、お前は。見かけない奴だな。」
 バサッ、ザザッと羽音も鋭く舞い降りるや黒陰の主は、少しばかり甲高い声でハナに尋ねた。本能で体をひねり地面に身を伏せた状態から見上げると、ハナの瞳にこの世のものとも思われない生き物が映った。


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June 21, 2005

猫谷物語1-1-2-5

 夏が来ていた。この頃になるとハナはキクの後について、自分の足で歩いて駐車場に現われるようになっていた。むせかえるほどに青臭さを発散させている草族の巣窟なのだが、母子にとっては絶好の遊びと修練の場となった。背の高い草族がはびこり、たまに通りかかかる犬族や人族から身を隠すのに都合がよかったからだ。
 猫族は皆が皆しなやかで優雅であった。キクはこの辺りに棲息する猫族の中でも群を抜いて美しく敏捷に獲物を攻撃する事ができた。


 生きる為に最小限の殺生だったが、キクが鳩を仕留めた時の事であった。もうすでに三日も彼女は腹に何も入れていなかった。虫やとかげなど得る事のできたわずかな糧はすべてハナに与えていたからだ。家持ちに比べ野良猫であるキクは春から夏にかけては余分な脂肪を一切身に置いていなかった。谷に比べ丘は鼠など大型動物が極端に少なかった。生きては行けるが筋力が落ちる事により狩りの能力が低下し、ひいては母子ともども餓死を待つより他に道が無くなる事を知っていた。腹を満たすとともに鍛練を怠る事はなかった。
 キクの鋭敏な聴覚は複数の羽音を逃さなかった。音から中型の鳥でおそらく鳩であろう事を確信した。これを逃せばまた何時新鮮で腹持ちのする餌にありつけるか解らない。やがて獲物を見つけ風を読み風下に移り、全身から匂いと音を消した。十メートル程離れた辺りから腹ばいになって近づいて行った。手足をできる限り体に密着させ動きを悟らせなかった。成功を頭に描きひたすら獲物を凝視して距離を測った。迷いがあるうちは駄目だ。必ず失敗するからだ。二メートルくらいの位置から全身の筋肉を最大限に使って跳躍した。餌をついばむ為に群れていた十数羽が一斉にザッと羽音を轟かせて飛び立った。羽が舞い散る中から首を噛み仕留めた一羽の鳩をくわえ悠然とキクが現われた。荒い息を整え血走る目から興奮の色を静めるとそのまま獲物を引きずりながらハナの元へ帰って行った。
 この攻撃のタイミングは幼時から仲間とじゃれついたり、ふざけあったり、遊びを通して常に動くものに目を向け自然に体が覚えてきたものだ。ハナもやはり毛繕いをしているキクにまとわりついて母の尾と戯れていたが、キクは巧妙に尾を動かしハナの敏捷さを養う道具に変えていた。
 刻々と天空に模様を描き続け、止まる事の無い雲はいつしか積乱雲になり、まるで己の鍛えられた筋肉を誇示するボディビルダーのごとく隆々とした入道になっていった。
 猫族も暑過ぎるのは苦手であった。陽はとうに天空高くに登り、キクは車族の陰に入って冷えた土の上に草を折り敷き、その上に横たわり身を休めていた。


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June 20, 2005

猫谷物語1-1-2-4

 ナガミミは長い間、話相手のないまま退屈であったから、目に入るささやかな事柄から空想をたくましくして物語などをいくつか創って自らを慰めていた。だからそれまでの鬱憤を晴らすかのようにハナを掴えては、よく話しかけてきた。昨晩見た夢の話とか、東に天まで届くほどな途方もなく背の高い物を人族が作り始めたとかの類だった。生きることで精一杯の普通の野良猫にとってはあまり興味を引くものではなかったが、ハナは熱心に聞いていた。


 棲み家の東側から幅四メートルのアスファルトに被われた道を挟んで、高圧線とそれを支える鉄塔の下に駐車場が広がるのを望む事ができた。管理する人族が無精なのか、あまり手を掛けているとは思われず、雑草が生い茂るままであった。
 名も知れぬ小者達もいたがそれらは日陰者で、多くは一族の繁栄を願うばかりに異常な生殖能力を獲得した者達が群雄割拠する戦場であった。背高粟立草などは悪名を欲しいままにしていた。最も強大な覇者は車族であったが、常時その勢力を保持できず多くは半日は城を明け渡すという繰り返しであった。依然として草族のしぶとさが辺りを支配していた。そうした彼等でも、季節の移ろいによる栄華衰退は免れず、やがては朽ちていった。諸行無常は万物の上に公平に網を掛ける。悪名だろうと日陰者だろうと容赦なく草族の上に降りかかってくるのであった。しかし今は生きているのだ。己のあらん限りの力をその細胞の隅々にまで巡らし命の証を立てていた。
 遥か東に天空を刺すように直立した柱が伸びつつあった。
 ハナがナガミミに聞くところによれば、人族は高層ビルと呼んで誇らしげにしているが、何本も立っている様子が墓石のようで不格好な事この上もなかった。おそらく情熱に昇華された欲望の成せる業と思われるが、達したその時、索漠とした思いを味わう事になるのではなかろうか。多くは経済効率と数式がむきだしで、味気ない直線で構成され、優雅さに欠けており、およそ猫族には無縁の代物であった。
 その日は夜明け前より遠くが霞み、それらの奇妙な建造物も空間に溶け込み、隠れてしまうほどであった。猫谷でも東の八幡の杜から西側の烏山に囲まれる急斜面の底に霧が立ちこめ夢幻を見せていた。うっすらと光りを吸収して乳白色に輝く濡れた気体が樹木間に微動していた。やがて陽が高くなるにつれ、静かに渦状に集合し透明な気体に戻り、明日もまた会おうと淡い約束を交しながら天空に帰って行った。あるいは地上の葉の上に滴と変化し、天空に帰る仲間との再会を期待しつつ茎へそして土くれの中へ消えて行った。


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June 19, 2005

猫谷物語1-1-2-3

 キク母子が棲家とする生垣の館に飼われている犬族で、名をナガミミと言いトイプードルの雄であった。彼は並みはずれた好奇心の持ち主でもあった。

 ある晴れた日の事であった。ナガミミは庭に出て人族のスリッパを隠そうと盛んに穴掘りをしていたのだが、ふと芝生の先、生垣の下に何かを見つけたようだ。
 ハナであった。キクは出かけており、一人残されていた。決して動いてはならぬと言い含められていたのだが、庭先を動き回る得体の知れぬ者への不安と緊張から、つい身じろぎしてしまい枝音を鳴らしてしまったのだ。
 しばらくして後、鼻を伸ばしてきたから、たまらずハナはそいつの柔らかな部分に爪を立ててしまった。ギャンッと一声上げて館の内へ逃げ帰ったが、好奇心は納まらないとみえてその後も懲りずに来るようになった。猫族に対して特に敵愾心を抱いている様子もない。いつしかハナの警戒心も解け、異族でありながらも心の許せる仲になっていった。
 たえず人族のご機嫌をとっている情けない奴に見えたが、一見お調子者のようでいて案外賢く保身の術に長けていたのかも知れない。知性を顔に出さないタイプといって良かった。
 滅多に外に出してもらえず、いつも二階の窓から下界を眺めていた。
 窓は四方に開いており北へ開けた猫谷を中心に、東に八幡の杜が続き、切通しを経て東山。南に猫丘、下って南谷。西に烏山、猫場へ至る。北は国道、鉄道を挟んで北山。北山の東、東山の北に街が見えた。
 ナガミミには母の記憶が無かった。幼い頃に引き離されペットショップのケージを経て、ものごころがついた時にはここにいたからだ。
 人族の中に生きていたが、人族は彼の言葉を正確に理解していた訳ではなく、声の抑揚や態度から判断して付き合っていたに過ぎない。ナガミミの言語を理解できるのはだから実はハナが最初であった。ハナは他の者に比べて異族間での会話の能力に優れた素質を持っていた。
 人族は長じると人族間でしか言語を理解する事ができなくなる。異族間での会話が成立するのは、お互いが幼い束の間だけでしかない。異族の言語を聞き話す能力は、限られた人族間でより多くの情報を得るために切り捨てざるを得なかった物のひとつと言える。だが果たして人族が取得した言語は絶対であろうか。かえって万物から心を遠ざけさせているように思われるが残念といわざるを得ない。
 ナガミミは多くの知識を持っていた。館内を歩き回れる自由を得ていたため人族の書斎にうず高く積まれた書籍類を勝手に読む事ができたからであった。ナガミミが本を開いてじっと見つめる様子を見た人族は大騒ぎをしたが、犬に文字が解るはずが無いと言う人族の常識であっけなく騒ぎは沈静化した。


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June 18, 2005

猫谷物語1-1-2-2

 猫丘は平坦ではなくコブをいくつか背負っていた。
 所詮、野良猫である。家族を雨露から守る屋根や壁のある家などありようがないが、賢いキクはかつて祖母がそうしたようにその起伏の一段高みに絶好の棲家を確保していた。

人族の館を囲む生垣の根元にできた空間で、大谷石積みの擁壁の上にあり、道より一メートル程高かった。幸いな事に人族が丹精込めて育てたもので、みっしりと茂り、奥行きに厚みがあり外から中を伺う事はできなかった。枝下に若干の隙間があるため風通しもよく、乾燥した土に柔らかな枯れた草葉が心地良かった。母と子の安息の場としては十分であった。
 キクが何処からか持ち帰るわずかな糧でその日を慎ましく生きるのだが、まずは不足を感じる事もなく満ち足りた平穏な日々を送っていた。
 そんなある日、ハナは好奇心から生垣を頭でかき分けて作った隙間に、顔だけをのぞかせて初めて外の世界を見た。その日は大気もたいそう機嫌が良く、果てしなく広がる青空から眩い陽光を小さなハナにも存分に恵んでくれた。風の精が次々と現われては、幼いが鋭い感覚器官であるひげや触毛をそっと撫でて通りすぎて行く。その快感に思わずグルグル…と喉を鳴らしたが、やはり子供であった。
 大きく見開かれた二つの瞳に映る遥かなものへの畏怖から、四肢を踏ん張り指は鈎爪を立てたまま、そこから先へは一歩も出ようとはしなかった。
 濡れたように良く光る黒い小さな二つの目がこちらを落着きなく覗いていた。


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June 17, 2005

猫谷物語1-1-2-1

8877a231.jpg 二 黒陰

 その日は朝から晴れわたっていた。天空では申し分け程度に二、三の純白の雲がたわむれ、日輪は命の源を光線に変えて無償で地上に投げ与えていた。そのいくぶん強すぎる日差しを避けながら、大きな腹をかかえた一匹の若い雌猫が猫丘の上の定められた場所をめざして歩いていた。

胎内に子を宿して六十日ばかりたった頃で、体の毛も艶を失っており肩の筋肉も落ち、目付きもきつすぎるほどに鋭くなっていたが、強い母性に支えられて足取りはしっかりとしていた。やがて身を横たえ息を整え、静かに来るべき時を待っていた。
 月がうっすらとあらわれ次第に印象を濃くして夜になった。初夏とはいえ、陽が沈みきった後では日中とはうってかわり冷気が猫丘を支配していた。静寂に包まれ満天の星が見守る中、一匹の猫が宿命とともに生を受けた。
 子猫は黒い両耳と尾をのぞけば全身が白い短毛種であった。桃色の鼻の持ち主なのだが、生まれつき鼻の横に黒子があり、嫌でもそれが目だつところからハナと呼ばれた。優しく穏やかな丸顔の母とは明らかに異なるので、父親譲りなのだろう。眼は黒に縁どられ、まなじりがきりりと上がり、猫というより虎の目に似ていた。耳は大きくとがり、鼻面がやや長く、娘でありながら男の精悍な印象を受け継いでいた。子猫特有の丸みは備えていたが、けっして可愛いとはいえない風貌であった。
 それでも、母の愛を一身に受ける恵みのせいか、おっとりとした性格を持ち、外見から受けるきつい印象と性格の優しさから出るのびやかさとの不調和がかえって、一種の気高さを醸し出していたものと思われた。まず好かれもしないが嫌われることもないごく普通の猫に見えた。
 母は名をキクといい全身が白い毛でおおわれた器量良しであった。これが後に母子のうえに悲劇をもたらすとは思いもよらぬ事であった。
 ハナが成長して後、いくぶん憂いを含んだ青灰色の瞳と、ふと遥かを見やるしぐさに偉大な猫族六○○○万年前、遠くミアキスを始祖とした末裔の面影が宿る事になるが、今、彼女がそれを自覚していたかどうかはさだかではない。たとえ知っていたとしても今は野良猫の身であれば、それがどれほどの意味を持とうか。ただただ今は母の乳房に甘えるハナであった。
 キクは多くを語らなかったが、父はザキという名でハナが生まれる前に去ってしまい、ハナの記憶にない。同時に生まれた弟たちもいたが間もなく死んでしまったと聞いたのはだいぶ後の事であった。


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June 16, 2005

猫谷物語1-1-1-6

9ce55e77.jpg「そうは言わぬ。力は最も必要である。力無き者に口は無いからだ。だが、力とは武のみでは成り立たぬ。刃は力に似ておるが力では無い。刃はそれを許さず出る事を止めよと書く。忍は力を溜める心を指す。忍こそ誠の力である。第一、お前は自ら立ったが選ばれてはおらぬ。」

 カタギは言いながら、
「しかしだ。この者たちを見よ。」
 と、傍らの死骸を指した。チコは顔を向けたが目を背けた。
「良く見るのじゃ。そのようなお前でも助けようと命を掛けた者達が少なからず居ったと言う事だ。お前に賭けようと考えた者がいる限りお前は生き続けなければならぬ。本来であれば掟破りのその罪から死こそがお前にふさわしいが、この者達に免じて今度だけは、俺はお前を許そうと言う気持ちになったのだ。攻撃するはいともたやすき事、窮地にあって守る事こそ肝要である。悔しくば力を蓄えよ。知を養え。生き続ける事こそ力である。そのうちに己の器量も解る時が訪れるであろう。決して己の力を越えてはならぬ。力は内に秘めよ。」
「良く考える事じゃな。去るが良い!」と、カタギはチコの卑小さを武力を持って諭したものであった。
 手下の死骸は、東山の欅の根元に丁重に葬られた。
 惨めであった。完敗であった。負けた事ではなく味方から多くの信頼を得ていなかった。その一点であった。
 チコは「闘う意味は守るにある」と言う事を学んだのであった。そしてさらに「恐れ」を知った。また、一対一の戦方が古い事を悟った。これが後に烏山天狗のクロウとの決戦に役立とうとは神のみぞ知るであった。そして終生、自身の弱点を見抜いたカタギを憎しみとも敬愛ともつかぬ複雑な気持ちで師と仰ぐようになった。
 チコは、乱闘から逃れ厚い敵の壁からかろうじて脱出し上空から成り行きを見守っていたカリたちに支えられ八幡の杜へ帰って行った。生きて帰れたのは千に満たなかった。戦闘で死んだ仲間の供養をし、残された家族の面倒を見るようになった。後には荒々しさもすっかり影を潜め、長老のカジキを敬い、カリの意見も良く聞くようになり、領空内の経営に一層の身を入れるようになった。もとより空虚(うつけ)でもなかったチコが八幡殿と呼ばれるのに、時間はさして掛からなかった。
 後に義兄弟の契りを交したゴロから聞いた話しによると、当時、何故チコを許したと詰め寄るゴロにカタギは、
「ゴロよ、お前はやがてカタギ一族の長になる。だが、奴は一族を超えて烏達を導く器量の持ち主となるであろう。その力は未だに粗野だが、その大いなる者をここで滅ぼすのは烏の為にならぬ。お前もチコと同様に武を誇る所がある。自らの戒めとして奴を終生見届けよ。だが警戒は怠るな。野望が卑小な野心に置き換わったならば、その時はためらわず速やかに奴を潰せ。」
 と、語ったと言う。


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June 15, 2005

猫谷物語1-1-1-5

b3c48994.jpg チコが倒されたと見た烏達は必死で囲みを突き抜け領外へ逃げた。カタギ達もそれを追う事をしなかった。囃し立てもせず、罵声を浴びせる事もなく粛粛として森へ引き上げた。

 その際、チコは自ら深傷を負ったのみならず、自分を逃そうと試みた若者の幾羽かを死なせてしまった。カタギの前に引き出されたチコは、己の欲の犠牲になり木の枝に吊り下げられた、もはや物言わぬ者達を見て悔いた。
 生まれて初めての敗北であった。
「小僧、このまま殺すには惜しい顔をしておるな。」
 チコに止めを刺そうとするゴロを制止してカタギは、
「負ける闘いは今後はせぬ事ぞ。」
「カッ、誰が鼻から負けるつもりで喧嘩を売るかよッ。」
 チコは血で片方が塞がった目をカタギに向け、噛みつく様に答えると、
「小僧、ここに至ってもまだ解らぬとみえる。口だけはまだ達者な様じゃな。良い根性をしておる。だが、力と気力だけでは勝てぬ。現にお前はここで命を失うやも知れぬではないか。生殺の与奪権は我らにある。また、お前の無謀の巻添えで手下をいったい幾羽殺した。」
 これには返す言葉もなかった。
「お前は負けた本当の理由を知らん。」
「負けに訳などあるものか、俺に力が足りなかっただけだ。」
 言葉に力がなかった。
「良いか。確かにお前とお前の手下どもは力がある。あのまま嘴の陣形を保って戦えば結果は異なったやも知れぬ。壁の一つはたった千と三百だったからな。たちまちの内に突き崩されていた事だろう。だがな、お前の手下どもは勝手に陣形を崩した。何故かのう。」
「……?知らぬ。」
「お前には力はあっても手下を心服させる心が欠けていたからだ。数はあってもお前たちは未だに個の寄せ集めに過ぎぬからだ。兵は将を見る。将が勝手であれば兵もまた気ままな行動を取るであろう。将を信頼すれば兵は恐れを知らぬ。女子供とて普段は見せぬ力を出す。お前達が陣形を崩したのは兵に恐れの気持ちがあった為だ。信頼する者が居らねば、皆、自身ばかりを守ろうと考えるのが世の常じゃ。」
「……皆は俺の力だけを見ていたと言うのか?俺を恐れて。力は信頼を生まぬと言うのか?」
 ゴロに押さえ付けられたまま、チコは顔をカタギに向けたが激しく揺れる瞳は心の動揺をあらわに自身に向けられていた。


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June 13, 2005

猫谷物語1-1-1-4

3a350340.jpg 待ったが返る言葉がなかった。カリは諦めると前方を注視し、自らを先駆けとした。さらに、腹心の部下を呼び寄せるとチコを固く守護する様に厳命した。いずれも屈強な若者であった。

 獣と異なり鳥族には天地がある。最終警告でカタギは天に逃げ道を残したが、チコの残忍な血がそれを無視した。するとまもなく後方の壁は三分し、チコ達一群の天と地に展開して堅固な蓋を形成した。握(あく)の陣形で守りから攻撃の態勢になった。
 カタギはチコの手強さを認識していた。味方の損失を出来るだけ防ぐために攻撃を短時間で終息させる戦法を採った。殆ど全ての配下の烏達を動員し迎撃態勢を整えたのだった。
 緩やかな握(あく)から濃度を増し固い賽(さい)の陣形となった。チコたちはたちまちのうちに天地四方を闇に囲まれ逃げ場を失った。しかも間隔を狭めて押し包む様に迫って来る。
「奴ら自ら棺桶を作りやがった。者ども、力で押し切れ!カタギを突け!」
 カタギの本隊を切り裂き、相手を混乱させ乱戦に持ち込もうとしていたチコが叫んだが、血に飢えたならず者たちは各々獲物を求めて列を乱し始めた。
 大気の只ならぬ揺れに、ふと後方に目を向けたカリは恐怖した。
「いかん!チコ、味方を散らすな。まとめろ!」
 円錐の先にいたチコはカリの声で、ようやく陣が乱れ始めた事に気付き、
「伝令!皆を呼び戻せ!錐(すい)の陣形を守れ!」
 手下に集合する様に指示を発したが後の祭であった。
 カタギの組んだ六方の厚い壁から屈強な烏が次々に飛び出して来たが、決して一対一にはならなかった。必ず数をまとめ四の単位で隊列を組んで攻撃して来た。しかも、物の数分も経つと疲れを最小限にする為にあっさり引き下がり後陣に譲った。
 チコたちは苛立ちを覚え始め、同時にひどく疲れて来た。確かにならず者集団であるチコの手下は周辺の烏より体が大きく、獰猛で一羽同士の対決であればいずれも向かうところ敵無しであったが、勝敗は数の上で明らかであった。
 味方が散り散りになり、常にチコの側近くにいてチコの指令を伝える烏も戦いに巻き込まれていった。
 黒い渦の真只中に混乱と無秩序のチコ達の陣があった。いや、もはや陣とは呼べない惨状があった。カタギの冷酷なまでの規律は守られ、チコ達を翻弄した。至る所で嬲られるままであった。
 鮮血が大小の弧を描いた。黒い羽が朱に染まり、飛沫の様にぶわッと散った。目を潰され、嘴を砕かれ、脚を失う者達も出た。
 ならず者達はチコの指令が届かなくなり、味方の姿が確認できなくなると圧倒的な数を誇る相手の前で孤立感から急激に戦意が萎えていった。深傷を負い体を赤黒くぬらぬらと染めて、やがて一羽、また一羽と断末魔の叫びを残し遥か下の森へ消えて行った。
 チコは善戦したが、カタギ自ら手を下すまでもなく、カタギ一族の筆頭、若党ゴロが率いる一隊により押し包まれ戦闘は程なく終わった。


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June 12, 2005

猫谷物語1-1-1-3

370e10f0.jpg カタギの領空に入った。
 欅から数羽の若い烏が警告を発するため、飛び立ち急上昇しチコたちの前方を横切ったが、それらを無視しあるいは甲高い声を上げて遮る烏を蹴散らしカタギの本拠を目指して飛行を続けた。手入れの行き届いた両翼が日輪の放射を反射してキラキラと瑠璃色に輝き、大気を切り下げる音だけがしていた。

「フンッ、カタギの老いぼれめ怖じ気づいたか。」
 チコは顔に当たる風に目を細め、早くもカタギの領空を支配する我が身に思いを走らせた。カタギの抵抗が余りにあっけなかったので、わずかに不審の念を抱いたが、それも記憶に止まらぬ程度のものであった。日輪に向かう己の姿に酔っていたからだ。
 先行するカリが脚を下げ、速度を落としてチコに寄って来た。
「長、おかしい。引き返した方が良い。」
「カリ、貴様、臆病風に吹かれたか。」
「何とでも言え。カタギは老いぼれだが知恵がある。争いを好まぬ奴だが、領空に侵入して五分も経とうと言うに、たった十羽だけで警告を止める筈が無い。この先、何かある。」
 カリはチコと違って慎重であった。歳も上で知恵があったためチコは信頼していたが、
「俺に引き返せだと。馬鹿な、俺たちはいずれも喧嘩で負けた試しが無い。皆もそうであろう。」
 見回すと二千が「おうッ」と応じた。
 カリは仕方無く
「ならば言うまい。だが、喧嘩と戦いは違う。引き際をお忘れ無き様に。」
 と、言って離れた。
「出たッ。」
 逆光の中、前方に墨がじわじわと染み出すかの様に巨大な陰が現われた。その数二千に見えた。事実は三千であったが、厚みを伴い重なっていた為、見誤った。負ける筈が無いと慢心したチコ達の目に曇りがあった。
 二度目の警告であった。しばらくうねる様に上下動を見せていたが、チコたちが構わず直進するのを認めると、黒い塊に見えた物が濃度を低くするのと同時に手の指を広げた形になり左右に展開した。
「カカッ、逃げるのか。」
カリがそう思った途端、新手の千羽が出現し前方に壁を作った。
「まともに戦えるのは三千か、カタギも大した事は無い。」
 ところが、これは翼(よく)の陣形であった。本隊は新手と見えた千羽で、カタギはその中にいた。上から見ると合の文字から口の文字を取り去った形になる。これが三度目の警告であった。
 この時点でチコたちは嘴(くちばし)の陣形を採っていた。円錐形で攻めるに適していた。チコの性格そのもので彼には後ろと言う概念がなかったのだ。遮二無二押し通す、これが全てであった。そのままカタギ目がけて突き進んだ。
 と、その時、恐れおののき沈黙している様に思えた眼下の森からザッと音を立て大群の烏が飛び出し、巨大な壁で後方を固めた。羽撃く音が唸りを上げた。最終警告であった。
「何ッ、八千!女子供も出して来たのか?」
 後方に目を向ける事のないチコの戦法にカリは嫌な予感がしてならなかった。カリは天を見た。次いでチコを振り返りカルラララッと叫んだ。
「長!どうにも気に入らん。今なら間に合う。この戦いは止めるべきだ。天に昇り引き返せ!」


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June 11, 2005

猫谷物語1-1-1-2

6662b5b5.jpg 八幡の杜にある楠が風の動きとは異なる揺れを見せていた。
 烏の群れであった。各自が勝手に身繕いをしているように見えたが、一定の方向に頭を向ける事が多かった。目を向ける先端に、他の者達とは比べ物にならぬほど大きな烏が止まっていた。欲望が夜の明けるのを待っていた。

「俺はよ、ちいっとばかりカタギに挨拶をしに行こうと思う。」
「チコよ、いや長と呼ばねばなるまい。それはまずい、なわばり荒しになるぞ。お前様がいかに強くとも、それは掟に背く事になるぞ。」
 年老いてチコから長(おさ)の位を奪われていたカジキは、チコの挨拶と言うのが只のそれとは違う意味を持っているのを知り、ふるえが止まらぬ羽を広げ忠告したが、
「何、構うものか、相手は老いぼれだ。うまくすればよ……。」
 最後まで言わずに枝を離れた。
 長老のカジキの制止を振り切り、腹心のカリや手下を率いて切通しを越えて東山カタギのなわばりに踏み込んだ。長に成り立てで手下に自らの威勢を示そうとたくらみ、また多少の自惚れもあって他領に己の支配力を誇示しようとの欲にかられてのものだった。
 ところが、カタギ一族は強大であった。領空も広く周辺で最大の勢力を維持していた。豊かな森と街が餌場であるから手下の数も半端ではない。まず八千と言われていたのだった。カタギ自身もその公平な判断力と豊かな知識で声望高く、周辺の烏のみならず鳥族全てから一目置かれた存在であった。慕ってくる若い烏も多かった。当然、跳ね上がりのチコなど物の数でもなかった。
 確かにぶつからねば解らない壁もある。だが大き過ぎて小者には見えない壁の存在がある事にチコは気が付かなかった。

おまけのムービー
これ
1999年物語の骨子を固めた際に作ったムービー。フラクタルペインターにアニメ機能があると言う事で1フレーム1ピクセル移動を手動で延々と作成。
この後すぐに友人からフラッシュというアプリがあると聞かされてショックを受けた。


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June 10, 2005

猫谷物語1-1-1-1

73633935.jpg第一部 幼子編

第一章 天地


  一俯瞰


 ある日の事。惰眠を貪る若い野良猫の前に烏が舞い降りた。


「俺の名はカリと申す。」
 闇が口を開いた。
 明日を夢見る事は自由だ。だが、思い悩むのは愚かだ。
 昨日を懐古するのは勝手だ。だが、過ぎた事を悔やむのはさらに愚かだ。
 今日を誠実に生き切る者には過去も未来もない。あるとすれば時間の経過だけだ。
 死ぬまで生き、その意味を考えない。
 したがって生きる事を苦にせず、必要以上の何物をも残さない。
 俺は同じ季節をすでに百と見た。誰よりも長く生きて来たと言う事を最近知った。俺が知っていた者達が皆いなくなってしまったからだ。
 だが、俺もこの先同じ季節を何度見られるか解らない。それは俺が決める事ではないからな。
「だから俺が知っている、この谷で起きた出来事をお前に話しておきたい。聞いてくれ。」


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猫谷物語プロローグ2

df1bcfc7.jpg 西にその街がある。江戸時代は宿として栄えたが昔日の面影は今はない。旧街道筋は商店街に変わり、本陣跡に栄華がわずかにしのばれた。

 その本陣跡あたりに交差点がある。現在では切り崩されて形こそはっきりしないが、古墳であった小高い丘を中心に分岐し、左が切通しを経て南街道へ、右が本道へと続く。その真ん中辺りに車が一台通るのがやっとの細い道がある。丘の底辺の形をそのままなぞったかのように曲がりくねった道だ。ゆるい勾配を登り進むとしばらくして高速道路の擁壁に突き当たり、その先は車が通れず階段となる。
 初夏の強い日差しをさえぎる物もない中、心臓破りの階段を登りつめる。ざっと百十余段。そこから市街が眼前に広がる。以前は西に遠く富士山、東と南に港界隈を望んだが、現在は家が建てこみ見る事はできない。
 この馬の背のような丘の頂上に道が通り、行政上の境にもなっている。住宅も多いが、俗にマンション部落と呼ばれるほど高層集合住宅が建ち並ぶ。
 この辺りを瀬戸が谷と呼ぶ。瀬戸とはすなわち狭いの意で、蛇行する今井川の流れに沿って、なだらかな丘に急斜面を持つ文字どおり狭い谷がいくつか刻まれ、複雑な地形を描きだしている。三陸海岸を想像されるとわかりやすいかと思われる。
 以前は斜面に樹木が密生し青々とした景観を誇っていたが、中腹に高速道路が出現し、台無しにしてしまった。しかも過ちに気がついたのは良いがそれを被いかくそうと醜い化粧を施した。おかげで恥の上塗を犯してしまった。
 ここに住宅が密集し、やたらと猫の多い谷があった。人族はこの谷を「ねこがやつ」と呼んでいた。人族の無関心が増やすのか、人情が繁殖を助けるのか、それはよく解らない。しかし、猫も人の社会に接して生きている以上、人族の都合によりその運命を変えていかざるを得なかった事は確かであろう。
 北へ開けた猫谷を中心に、東に八幡の杜が続き、切通しを経て東山。南に猫丘、下って南谷。西に烏山、猫場へ至る。北は国道、鉄道を挟んで北山。北山の東、東山の北に街があった。


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猫谷物語プロローグ

生と死、闇と光があるように事物は有無の二つに分けられた。
惑星は命を育む環境を持つ、持たずに分かれた。
命は水の環境に適合する、しないに分かれた。

やがて陸上の巨大な植物群の只中にニアキスが誕生した。
樹上から地上に降りて密林に適合する者とそうでない者に分かれた。
適合する者は猫になり、しない者は犬になった。
猫は大きな者とそうでない者に分かれた。
大きな者は獅子や虎になり小さな猫は山猫になった。
山猫は人に近づいた者とそうでない者に分かれた。
人に近づいた猫はイエネコとなり人にとって都合の良い者に改良されていった。
そうでない者は山猫のままであった。
イエネコは人に飼われた者と捨てられた者に分かれた。
捨てられた猫は野良猫になった。
イエネコは生存をかけた争いを始めた。
一方、山猫はイエネコの脅威や環境の変化に着いて行けず
滅亡してしまったと言われていた。
だが、ここに
いにしえの血筋を営々と受け継ぎ、野生を保つ山猫一族がいた。
人里離れた地に隠棲していたが、
猫同士の争いを知るや降臨し密かに人間界に住んだ。
山猫一族の中でも群を抜いて優れた者は御掟殿と呼ばれていた。
御掟になる者は自らその運命を悟らなければならなかった。
使命はただ一つ、猫族の融和であった。


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December 25, 2004

猫谷のクロは

猫谷のクロは自身をいつまでも赤くならず茶で終わる紅葉に見立てたが、島猫になり後に御掟殿を助けるブチにマロを通じて遺言する。「だが俺は見た。光を透かして見やれば必ず光る。己に光なくとも光を背負え。真に暗黒ならば影を作るがお前が御掟殿を信じるのならば自ずと我の進む道を照らし出すであろう。」と。
今朝出勤時に朝日を背負う紅葉を見て猫谷物語に追加した。


posted 久多@麩羅画堂 : 10:05 AM | comments (0)

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